東日流外三郡誌の謎を追う

はじめに

『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)のことをご存じでしょうか。かつて東北に存在したとされる古代王朝について書かれた古文書なのですが、偽造された文書として有名でもあります。

管理人の関心は、『東日流外三郡誌』が偽書かどうかにあるのではなく、「偽書」として証明した方法論にあります。

はっきり言って『東日流外三郡誌』に書かれている内容には関心がありません。その内容に偽りがあるという話ではなく、『東日流外三郡誌』が最近の人が作った偽書だとされていることに関心があります。

なぜこのような視点なのかというと、日本の歴史学者の間で長年『甲陽軍鑑』を偽書扱いしてきたという「実績」があるからです。

管理人が疑問に思うことは、『東日流外三郡誌』って本当に和田氏が書いたものなのかということです。

書籍やテレビの情報などを見る限り、和田氏は虚言癖があり怪しさ満点の人物です。彼の周囲の人たちも和田氏のことをさんざんに貶(けな)しています。

ところで、そんな人物が、本当に一流の歴史学者をだませるような歴史書をねつ造できたのかという疑問が生じます。

この元史料は筆書きで、江戸時代、あるいは明治時代の書き方で書かれており、それ故、歴史学者が信じたということもあるのではないでしょうか。

偽書だというのは簡単です。では、ここで質問です。「あなたはこれと同程度のものを書けるのですか?」

これが管理人の疑問の根底にあります。

歴史に詳しい人でも歴史書をねつ造しようとは考えないはずです。歴史に詳しいからこそ、自分ではそれが不可能であることを知っているからです。偽造書の内容もさることながら、そこに書かれている文体、運筆、用紙の紙質、紙のすき方、墨の種類、・・・。歴史書に詳しければ詳しいほど、『東日流外三郡誌』のような偽書を自分では書けない、つくれない、と感じるはずです。

『東日流外三郡誌』が偽書である、と声高らかに言っている人たちって、誰なのでしょうか。

管理人は、『東日流外三郡誌』は偽書であると考えていますが、その制作者は和田氏ではない、と考えます。

和田氏は『東日流外三郡誌』を創るだけの資質に欠けているのです。

歴史好きの人たちは、『東日流外三郡誌』は偽書であり、それは証明されていると考えているようです。何の疑いもなくそれを信じている。だから甲陽軍鑑の時と同じように歴史学会の恥をさらすことになる。

管理人は、分析の視点にぶれがあるように感じます。

「偽書」と誰が証明したのか?その方法とは

『東日流外三郡誌』が怪しい文書であることは誰でも分かります。問題は、それが『偽書』だとどうやって断定するか、という方法論です。

一番滑稽なのは、書かれている文字の筆跡が発見者だと特定したことを最大の理由とするもの。これが理由にならないのは分かりますよね。

“和田氏が書き写したものかも知れない!” つまり、和田氏の”嘘”は、その史料自体が古文書だと主張したことであり、本当は、出所を決して明かすことができない”本当の古文書”を写しただけなのではないか。

『東日流外三郡誌』に書かれている内容に誤りがある、ということも偽書と断定する根拠にはなりません。このような古文書は編纂する人の都合の良いように書かれるからです。

このような論点は、『甲陽軍鑑』を偽書として扱ってきたという反省に立てば、方法論の弱点が明らかです。

東日流外三郡誌は偽書であり、和田氏がその制作者として考えられている、などWikipediaの記述を読むと、「これを書いた執筆者は歴史を勉強する資格すらない」と思えてきます。

なぜそう思うのか? それは、視点があまりにも平面的だからです。

その意図は、「偽造だというならおまえが書いてみろよ」ということです。他人の揚げ足とりばかりで、間違いを見つけると偽造だと騒ぎ立てる。中学生レベルです。

管理人は、常に、自分なら、と考えます。自分なら、『東日流外三郡誌』を書けるのかということです。当然書けません。一流の研究者を欺けるような文体で文章など書けるわけがありません。そもそも筆書きで文字を書けない。

では、和田氏はそれを書けたのか。和田氏の経歴を見る限り、昭和生まれの和田氏が書けたとは思えません。すると、何らかのからくりがあるのではないか。

そう考えるのが一般的な感覚です。

一つの過ちを見つけて「偽造だ」と騒ぎ立てるのは中学生のレベル。あるいは、テレビ報道の内容を信じて疑わないお年寄りのレベルです。

では、「おまえが書いてみろよ」と言われるとぐうの音も出ない。

管理人は、和田氏の知力では『東日流外三郡誌』を書き上げることは不可能だったと考えています。すると、結論が見えてきます。

和田氏はある古文書を発見したのではないかと。しかし、その入手方法がたぶん違法だったため、それを明らかにすることはできなかった。殺人や放火など、決して口外できない手段で入手した可能性もあります。

発見者が一番怪しい古文書偽造の世界

世界の謎が大好きな方は『ヴォイニッチ手稿』について知っていると思います。

本サイトでは、『ヴォイニッチ手稿の謎に迫る』という記事をアップしています。関心のある方はご覧下さい。

この「ヴォイニッチ手稿」とは、「1912年にイタリアで発見された古文書(写本)。未解読の文字が記され、多数の奇妙な絵が描かれていることが特徴である。」とWikipediaに書かれています。

これを発見・公表したのがリトアニア生まれの古物商ウィルフリド・マイケル・ヴォイニッチ。この人はとても怪しい人物で、「ヴォイニッチ手稿」はヴォイニッチ氏がねつ造したものではないかと考えられてきました。発見者が一番怪しいからです。

シオン修道会の話をデッチ上げたピエール・プランタールという人物がいます。彼は、『秘密文書』という名前の自作の偽造書物をつくり、パリの国立図書館に贈呈し、その50年後に、自らそれを『発見』したと称して、この本の信憑性を高めようとしましたが、1993年、自分で偽造したものであると告白しました。

このように、古文書の発見者が一番怪しいと考えるのが一般的でしょう。

では、この考え方が『東日流外三郡誌』、和田家文書の場合に適用できるのか。

和田家文書が上の事例と大きく異なる点は、そのボリュームにあります。『ヴォイニッチ手稿』にしろ『秘密文書』にしろ、作られたのはわずか一冊の書物。これに対し、和田家文書は600巻を越えているようです。あまりにも膨大な文書群。感想文なら書けても、見破られないように古文書を偽造するのは不可能でしょう。いや、可能かも知れませんが、そんなことは誰もやらない。

『東日流外三郡誌』が偽書だとされる根拠とは

  • 『東日流外三郡誌』(およびその他の和田家文書)については、考古学的調査との矛盾(実際の十三湊の発掘調査では津波の痕跡は確認されておらず、また十三湊の最盛期は津波が襲ったとされる時期以降であったらしい)
  • 「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」(そもそも光速が有限であることが証明されたのは17世紀後半である)や「冥王星」「準星」など20世紀に入ってからの天文学用語が登場するなど、文書中に現れる言葉遣いの新しさ
  • 発見状況の不自然さ(和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)
  • 古文書の筆跡が和田喜八郎のものと完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある
  • 他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書ではないかという指摘がなされた。
  • しかし、原田実が真書派から偽書派へと転向するなど、偽書であるという説のほうが有力であった。一番の問題は、和田喜八郎が公開した資料は、あくまで喜八郎の祖父である末吉による写本(と喜八郎が主張したもの)であり、肝心の「原本」の公開を拒んでいたことであった。
  • 1999年(平成11年)に和田喜八郎が死去した後、和田家は偽書派により綿密に調査がなされた。この結果、天井裏に古文書を隠すスペースなど確かに存在せず(後日公開された和田家内部写真[によれば、膨大な文書を収納できるようなスペースはなかった)、
  • 建物内には原本がどこからも発見されなかった上、逆に紙を古紙に偽装する薬剤として使われたと思われる液体(尿を長期間保管したもの)が発見され、偽書であることはほぼ疑いがないという結論になった。

Wikipediaに書かれているねつ造の根拠が上に示したものです。Wiki執筆者は偽書説の根拠を示しているつもりらしいのですが、管理人には理解できません。この羅列された内容で偽書だと主張されても説得力がまるでない。やっていることは、和田氏のねつ造を主張したいだけであり、(和田氏が盗み出したかも知れない)『東日流外三郡誌』そのものの内容にはほとんど触れていません。

つまり、和田氏がねつ造したと言うことをいくら証明しようとしても、それは『東日流外三郡誌』そのものが偽物だという証明にはならないのです。

偽書だと言うのならおまえが作ってみろ

『東日流外三郡誌』を偽書だと批判する人たちの特徴として、ある種の嫉妬、という感情が見え隠れします。

もし、『東日流外三郡誌』が古文書ではなく、歴史小説として発表されたとしたらどうでしょうか。一流の歴史研究者が真実が書かれていると間違えるほど優れた壮大な歴史物語。

後にも先にもこのような壮大な物語を書き上げた人物はいません。

『東日流外三郡誌』を批判する人たちの特徴は、ある種の嫉妬。『東日流外三郡誌』が自分では書くことができない歴史作品だからです。内容について踏み込むと、自分の知識のなさが露呈するから、誰も内容については書きません。書くとしたら、本質から離れたどうでもよいような誤字を見つけたと喜ぶ程度です。

『東日流外三郡誌』についてネットで調べると奇妙なことに気づきます。それは分析があまりにも平面的なのです。

ここで「平面的」と述べている理由を説明します。

管理人の言う「平面的」とは、一般に言うところのステレオタイプの人たちの思考です。もちろん、本人はそれに気づいていません。だから、他人の文章を批判できるのでしょう。

彼らの特徴は、分析枠を持っていないことです。このため、問題についての別の視角があることにまったく気がつかず、持論を展開する。そこで展開される議論は滑稽です。

管理人が度々書いていることですが、問題の所在は誰でも知ることができる。次にその問題を解決するための方法論を考える。

この手順が正しいと思っているから滑稽な議論になるように思います。

「分析枠を考える」というきわめて重要な手順が抜け落ちていることに気づいていない。そのような人は、一生気づかないと思うので相手にしないことにします。いくら言ってもその意味を考えようとすらせず、拒絶します。だからステレオタイプなのです。

ネット情報や書籍で感じる疑問。それは、発見者(執筆者)の和田喜八郎氏についての情報がほとんど皆無であること。

たぶん、Wikipediaに書かれている内容がほとんど全てではないでしょうか。中野学校云々・・・など、ちょっと調べれば分かることしか書かれていません。彼が言ったことを否定する証言があるという羅列に過ぎず、経歴についてはほとんど何も書かれていません。まさに、お粗末。

逆に言うと、和田喜八郎氏の経歴は謎なのです。

これって、少し調べれば分かることです。つまり、誰も調べていないのです。調べもせずに『東日流外三郡誌』は偽書だという本を書いている人がたくさんいます。そのような本のレベルは読まなくとも分かります。

東日流外三郡誌が偽書だとするその根拠が笑える

原田実氏の著書『偽書が揺るがせた日本史』を読むと、奇妙なことに気づきます。

原田氏が東日流外三郡誌は偽書だと主張する根拠として取り上げているのは、以下の点です。P.(本を図書館に返却したので後日書きます。)

歴史研究者なら、昭和生まれで無学な和田喜八郎がねつ造した文書など、文章の誤りから一笑に付すのかと思ったら、なんと、見当違いの指摘をしている。

こんな指摘しかできないのかと呆れてしまうのですが、逆の見方をすると、和田喜八郎氏の文章が歴史研究者をもだませるくらいに洗練されたものだったことの裏付けになります。

原田氏が、「こんな文章は昭和生まれの人間が書いたものだよ」、と指摘できなかったと言うことです。

多くの研究者は、偽書か否かにのみ関心があり、偽書である可能性が濃厚だと分かると、この書物への関心も無くなるようです。

原田氏は、「喜八郎氏は青年時代、郷土史家の手伝いをしていたことがあった。そのため東北地方史について「偽書」が書けるくらいの知識と技量はあった。」と考えているようです。1)

この人、本当に研究者(だった?)なのでしょうか。一つの考えに取り憑かれるともう他のことは見えなくなるタイプの人のようです。

郷土史家の手伝いをしたら偽書が書けるレベルになったなど、本気で書いているのでしょうか。とても怪しい人物に思えます。

「そう考えるのなら、おまえが書いてみろよ!」ということです。原田氏は重要な点を見落としています。いや、意識的に触れていません。それは、「東日流外三郡誌」が発見されたとされる1947年8月、和田家の天井を破って長持ちが落ちてきた、という有名な逸話。

さて、この時、和田喜八郎氏は何歳だったのでしょうか。原田氏が決して触れないことです。

なんと、和田氏は21歳だったのです。

原田氏は古田武彦氏の助手をしていた時期に『東日流外三郡誌』や「和田家資料」を実見しています。そして、和田氏の最終学歴も知っています。和田氏の最終学歴は高等小学校卒業です。

原田氏は、和田氏が『東日流外三郡誌』を偽造するだけの知力がないことを知っていました。しかし、それを伏せて本を書いています。自分に都合の悪いことは書かない。

和田家文書で着目すべき点は、その量が膨大だと言うことです。誰かが書いていましたが、大学の研究室のチームが何年もかけて作らないと偽書の作成など無理と。

和田喜八郎氏の死後に自宅を訪れ、天井裏などないことを確認した、など、お粗末な視点です。

問題として残るのは、誰が書いたものなのかと言うこと。それは、和田喜八郎氏でないことは、原田氏の稚拙な現地証明などで明らかになったわけではありません。そんなことも分からないのか、と思ってしまう。和田喜八郎氏では偽書を作成することは不可能なのです。

重要なことは、「東日流外三郡誌」は和田喜八郎氏がねつ造した偽書である、という意味のないことを証明することではありません。そんなことはわかりきっています。着目すべきは、膨大なボリュームの文書群をだれが作ったのかということです。

天井裏にスペースがなかったから偽書だという説明は、何の意味もありません。和田氏がその事で嘘を言っていただけのこと。

「東日流外三郡誌」の編纂には、数名の人物・チームが何十年もかけて調査し書いたものと考えるのが妥当です。

もし異論があると思った方に、もう一度言いたい。

「そう考えるのなら、おまえが書いてみろよ!」

元本はきっとある

和田喜八郎という人物は、どうもいかがわしい人物と評価されているようです。虚言癖があり、口からでまかせを言うタイプの人間のようです。彼のいとこの女性もそう言っているので間違いないでしょう。テレビでいとこの女性が証言しているシーンを見ました。「なぜ、学者先生まで騙されるのか分からない」。彼女の証言です。

しかし、和田氏が『東日流外三郡誌』を執筆したとするのであれば、かなりの学識者であると考えられます。一流の歴史研究者が瞞されたのですから、その知識は相当のものだったと考えられます。

ここで、おかしなことに気づきます。和田氏のようないい加減な人間が、自己流で歴史の勉強をして、偽造文書を制作する。そんなことが本当にできるのでしょうか。

歴史研究者でさえ、『東日流外三郡誌』の中身ではなく、和田氏の筆跡を根拠に偽造だと主張しなければならないほどに、『東日流外三郡誌』は優れた文章で書かれていたのです(実際にはそれなりの文章のようですが)。

これっておかしくないですか? 専門家も瞞せるほど高度な偽造文書を本当に和田氏が作ったのでしょうか。そして、その量が膨大なのです。偽書を作る人間は、それを大量に作ったりはしません。バレるリスクが上がるからです。

和田氏の最終学歴は前述した通り高等小学校卒です。彼の書いた文字はへたくそ。知性が感じられない悪筆です。彼に筆文字の偽書など作れるはずもありません。

管理人は、『東日流外三郡誌』には、元となる古文書が存在したのではないかと考えています。その一部を和田氏が筆写したのではないかと。和田氏は、その存在を明かすことはできない。なぜなら、不当な手段で入手した文書だったから。原本を提示した時点で自分は刑務所行き。これでは原本を示すことなどできない。

もしかしたら、古い祠や墓地の中に安置されていた巻物を偶然見つけ、それを盗み出したのではないか。あるいは、もっと危ない方法で入手したのではないか。

第一級の史料とされる歴史書の記述が常に正しいことが書かれているわけではありません。現在の所、よりどころがその史料しか存在しないから、それを根拠にさまざまな推論をすることになります。

逆に言うと、『東日流外三郡誌』の記述に誤りがあったからといって、この書物が偽物だと決めつけることはできないのです。

原田氏は結局何を主張したいのか。彼の論法は、『東日流外三郡誌』は和田氏がねつ造した偽書、ということを証明することで偽書説の根拠にしたいようですが、そもそもその証明手法は破綻しています。

自説に都合の悪いことは隠蔽するのでは話になりません。

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もしかしたら、江戸時代の人間であれば、偽書の作成は容易だったのかも知れません。しかし、和田氏は昭和生まれです。昭和生まれは「変体仮名」すら知らないのです。そして、「変体仮名」の使い方も分からない。したがって、変体仮名の使い方を見るだけで、書いた人の能力が分かる(管理人はぜんぜん分かりません)。

と書きながら、和田氏のうさん臭さは拭えません。

結局、和田家文書の膨大な量を和田氏1人で書けるわけがない、という点が最大のネックになっていると思います。この謎を突破できれば、和田家文書はすべて和田喜八郎のねつ造ということで一件落着です。しかし、これを突破できなければ、どんな傍証を積み上げても偽書説を証明することにはならない。

偽書だと騒いでいる人たちは、結局、何の証明もしていません。和田氏は嘘つきで和田家文書は盗品かも知れません。和田氏の言動や史料の写本を調べても偽書の証明には役立たない。やはり、意味がない。「和田家文書の膨大な量を和田氏1人で書けるわけがない」という壁を突破しなければ、真贋論争は終わらない。

これが、和田氏の最後の砦。裁判でも彼はこの点を述べていますね。

和田家文書って今どこにあるの?

和田家文書の大部分は、1947年8月に和田家の天井を突き破り落ちてきた長持、さらに、天井裏に吊されていた七つ以上の長持に入っていたとされています。

この大量の文書は、1万点を越えるとされていますが、それを見た人は、不思議なことに誰もいないようです。

和田家文書擁護派の学者の書く文章を読んでも、その存在をどこまで確認したのか分かりません。彼らは何らかの書物群は確認できたようですが、説明はそれで終わり。後は、和田氏がこう言ったという文章が続きます。何をどのように確認したのかさえ分からない記述になっています。

管理人は、「和田家文書など存在しなかったのではないか」、と考えています。しかし、タイムラインがそれを否定しているのです。和田家文書は確かに存在すると。だから奇妙なのです。

ネット上で見かける記事は、和田家文書擁護派と偽造派の二つに分かれています。そして、偽造派の意見を紹介し、偽造派の見解が正しいと結論づけているサイトが圧倒的に多いと感じます。

しかし、管理人にとって、これらのサイトの検証方法に疑問を感じます。結局、なんの汗もかいていないサイトという印象です。多くのサイトや文献で述べられていることを総合的に評価した結果、偽書説というスタンスを採っているようです。

ところが、タイムスタンプの視点で見ると、まったく違った側面が見えてきます。偽書説を主張する人たちが触れなかった部分、触れることができなかった部分。それがタイムスタンプなのです。

取り急ぎまとめてみたのが下の表です。

和田喜八郎の系譜

年月日年齢出来事
1789年から1822年 陸奥国三春城主の義理の子にあたる秋田孝季と和田喜八郎の先祖である和田吉次の二人が日本全国をめぐって収集し編纂し、和田家文書の『原本』を作成。
1870年から1910年 和田末吉(喜八郎の曾祖父)が和田家文書600巻以上を写本
1927年0和田喜八郎誕生
1944年17陸軍中野中学に入学と詐称
1945年8月15日18終戦
1947年8月20自宅の改装中に天井裏から大量の古文書が落ちてきて、『東日流外三郡誌』を始めとする「和田家文書」を発見。約200巻に及ぶ『東日流外三郡誌』のほか、『金光上人関係資料』、『天真名井家関係文書』等の合計368巻
地元の郷土史家の第一人者福士貞蔵氏が和田家文書の一部を書写
1949年22炭焼き窯を造成中に偶然、仏像、仏具、古文書を発見。同年、金光上人に関わる仏像、護摩器、経筒などを発見。
1949年22福士貞蔵氏『飯詰村史』編集完了
1951年24福士貞蔵編『飯詰村史』発行
1969年42和田氏を無銭飲食で逮捕したことがあると元警官が公務員法を犯して語る。
1975年から1977年48から50「市浦村史」(資料編上巻東日流外三郡誌)として刊行。以降、真贋論争に発展
1989年 古田氏は、原田氏の大学勤務時代の上司だった。1989年秋になって突然電話がかかってきた。『東日流外三郡誌』の調査に協力してほしいというのだ。当時、すでに「偽書説」が強まっていた。
1992年65三内丸山遺跡事前調査開始
1993年 「サンデー毎日」などが安本美典氏による「現代人の偽書」とする考証を報じ、「偽書説」がいよいよ有力になる。
1994年67三内丸山遺跡で直径1メートルの栗の柱6本が見つかる。
1999年5月23日 東京学芸大学西村俊一教授が和田家を訪れ、『和田家文書』の・・・
1999年9月28日72和田喜八郎死去 (Wikiwでは9/14としている)

この系譜を読む限り、戦後直ぐに、20歳の無学な田舎の青年が和田文書を偽造できるわけがないことが分かります。これが客観的なタイムスタンプです。この事実は誰も否定できません。

「東日流外三郡誌」について論争している人たちは、このタイムスタンプについては決して論じることはありません。したがって、この表は誰も見たことがないはずです。

タイムスタンプを見る上で重要となるのが、和田氏の年齢と出来事との関係です。この表を見た後で、「東日流外三郡誌」真偽論争のサイトを読むと、印象がまったく違ってくるはずです。

結局、自分の主張に都合の悪いことは無視するという偽書・真書両陣営の思惑のたまものです。

管理人が主張したいのは、どちらの陣営もとてもズルイということです。こんな基本的な情報も発信しないで自分の都合の良い情報のみで相手の説を屈服させようとしている。とてもズルイ方法です。

地元の郷土史家の福士氏が和田家文書に着目したのは、発見後直ぐであることが表から分かります。和田氏が長い年月をかけて偽造したという主張は根底から覆されます。和田家文書は確かに存在した。しかし、和田氏が後になってねつ造したものも多くあるのは間違いないでしょう。

突然屋根裏から出現する和田家文書群。これって嘘であることは明白です。和田家の屋根裏に長持を吊せるスペースなどなかったことが確認されています。

このような状況を整理すると、次のようになると考えます。

1947年、二十歳になった和田青年は何らかの方法で古文書を入手します。それを高く売るために様々な方法を考えます。そして、古文書偽造という手段に手を染めることになる。

当時20歳だった和田氏が地元の郷土史家の福士氏を騙せるような古文書をねつ造できたとは考えられません。戦後直ぐの物資のない時代です。最初に見つけたとする文書群は本物だと考えられます。たぶん、違法な手段で入手したものでしょう。このため、屋根裏から落ちてきたという嘘をつくことになります。

ここでおかしなことに気づきます。膨大な量の和田家文書は、いつ、誰が偽造したのかということです。

ここで注目すべき点は、「本当に膨大な量」だったのかと言うことです。それを確認したという資料は見たことがない。あるのは、和田氏がそう言ったという文言だけ。なんだこれ? (ただし、刊行されているものだけでもかなりのボリュームがあるので、「膨大な量」と言えなくもない。)

一番怪しい人物の言説が和田家文書の総数を決めている。その理由は、誰一人として和田家文書の全容を見た人がいないから。

古田武彦氏は『東日流外三郡誌』の「寛政原本」の公開を切望していたようですが、その期待は果たされることはなく和田氏が亡くなります。しかし、彼の遺品の中には原本はなかった。これで、和田氏の偽造説は確定です。

おいおい、そんなレベルなの? なにを分析しているの?

『東日流外三郡誌』偽書説を知った人は、もう考えるのをやめてしまうようです。そして、なんら疑問も持たなくなる。『東日流外三郡誌』は和田氏がねつ造したもの。その中身は短い文章の羅列で、そんなものは和田氏1人でも書ける程度のもの。

果たしてそうなのでしょうか。管理人はどうしてもこのことが引っかかるのです。

筆書き文書の偽造を、二十歳そこそこだった昭和生まれの高等小学校しか出ていない和田氏が本当にできたのかという根本的な疑問です。

誰かに書いてもらうには分量が多すぎ、現実的ではありません。やはり、どこかで不正に入手した盗品と考える方が、その後の和田氏の行動をみれば納得できます。

偽造派の人たちは、このことはなんの証拠も示さずに「できる」と書いています。

できるというなら、おまえが書いて、できるということを証明しろよ、という考えがどうしても浮かんできます。

和田家文書を絶対守り抜く、という和田氏の言動とは裏腹に、人に貸したら帰ってこなかったためたくさんの資料が失われたなど言っていることがむちゃくちゃで、彼の話は一切信用できません。屋根裏から落ちてきた、代々和田家に伝わってきたも全部嘘でしょう。したがって、その嘘を一つ一つ暴いていってもあまり意味があるとは思えない。最初から全て嘘で良い気がします。

管理人は、和田氏には古文書の偽造書を創り出すだけの知力も財力もなかったと思います。このため、偽造派の人たちが言う「簡単に創れる」説にはどうしても賛同できません。

和田氏が作れないとしたら、誰が作ったのか。

支援者が作ったと安易に推測することはできません。支援者の方に失礼ですし、もし、そのようなことがあったとしたら、その情報はとっくの昔に外部に漏れています。

世の中はいろんな人がいます。陰謀説を主張する人たちは組織を運営したことのない一匹狼のような生活を送っているのではないかと思います。陰謀を企てても、それは必ず内部から外部に漏れます。メンバーが漏らすからです。

お金を払って偽造書をつくらせた、説も説得力がありません。その方法は直ぐにバレてしまいます。和田氏には偽造書を外注するほどの財力はなかったでしょう。何しろ量が膨大! こんな多量の書物を外部に発注して作らせたと考える人がいるとしたら、そんな人には関わらないことにしましょう。

やはり、何かからくりがある。そして、誰もそれを解き明かしていない!

結局、『東日流外三郡誌』真贋論争というものは存在しなかった

『東日流外三郡誌』の真贋論争がまるで存在したかのような錯覚に陥ります。しかし、調べていくうちにそんなものは存在しなかったことが分かりました。

その理由は、和田氏が原書を公開しなかったことです。原書がないのに議論のしようもありません。論争のステークホルダーは何を論争していたというのでしょうか。まったく馬鹿げたことに時間と労力を浪費した人たちがたくさんいたようです。

原書の写しでは話になりません。

古田武彦氏がなんと言おうとも、原典がない中で真贋の議論などできるわけがありません。古田武彦氏は和田氏の戯言などほうって置けば良かったのです。原典を見て議論しましょうというスタンスを貫けば良かったのです。

議論にならないことに議論をふっかけた先生方にも困ったものです。問題外の作家はおいといて、安本美典氏までこんな論争を主導するようでは困ったものです。この先生は相当頭の切れる方のようですが、つまらないことに短い人生を使ってしまったことには気づいていないようです。

どういうつもりなのでしょうか。学者とは思えない失態です。

作家と称する人たちがこれを題材にいくつもの本を出版しています。結局、漁夫の利を得たのは彼らとメディアだけでしょう。

大学の先生方が参加したバトルは面白いのかと思ったら期待外れでした。原書がないのに何を議論していたのでしょうか。結局、和田氏がねつ造したということを探偵のように証明しようとしていた?

だから、方法論がおかしいのです。証明など一切不要。そんなことをしようとするからマスコミが騒ぎ立てる。大学の先生なら原書が公開されなければ議論にもなりません、と突っぱねるべきでした。

彼らがやったことは、「ないことを証明する」、「あることを証明する」ということ。原書も公開されていないのに、このような証明手法が成立するはずもありません。

でも、たぶん、別の思惑があったのでしょうね。学問とは関係のないことが。そんなことは管理人の関心外です。一つはっきりしていいことは、短い学者人生の貴重な時間を無益に費やしたと言うことです。

和田家文書を擁護する方たちは、その存在を明確にすべきです。誰がいつどのようにその存在を確認したのか。そして、現在、それはどこにあるのか。

失われたという説明をするのであれば、会は即刻解散すべきです。失われたのなら探すべきでしょう。和田氏は貸した文書が返してもらえなかったとは書いていますが、探したとはどこにも書いていないと思います。和田家文書の真偽以前の問題として、その存在を示す必要があります。写しでは話にならない。

おわりに

「おわりに」を一応書きますが、何とも歯切れの悪い記事になっています。それは、「和田家文書」として出版されている書籍を自分の目で確認できないからです。近くの図書館にも遠くの図書館にも収蔵されていない。そのうち国会図書館に行って閲覧しようと思います。そうすれば、もっと切れの良い記事になると思います。

いつものように未定稿・途中段階でアップします。だんだんと形になってきましたが、まだまだ完成までは遠い。

「東日流外三郡誌」の論争は、「邪馬台国がどこにあったのか」という論争と深く関係しています。

議論への参加メンバーを見ると、本当の学者の方たちは沈黙しています。騒いでいるのは、専門外の学者の方。その特徴は、マスコミ受けのよい学者。マスコミ受けの良い本をたくさん出す学者は要注意かも知れません。

最大の問題点は、両派の学者たちが基本を忘れ、感情的な行動に出たこと。まったく馬鹿げた論争です。両者が協力して、和田氏に対して「原書」の公開を迫れば、それで終わっていたことです。和田氏は公開しないからです。そんなものはないからです。もしあったとしても、窃盗の証拠となるので処分しているでしょう。

ところで、原田氏って一時期、パシフィック・ウエスタン大学博士課程修了(Ph.D.)というイカサマ肩書きを使っていたようです。苦労してPh.Dを取得した管理人は、無性に腹立たしい人物と感じます。

参考文献:
1) 『東日流外三郡誌』、Wikipedia
2) 古田武彦氏が『東日流外三郡誌』に騙された理由、デイリーBOOKウォッチ、2020年6月30日
3)『偽書が揺るがせた日本史』、原田実、山川出版社、2020