源義経の側室静御前が産んだ男の子は誰の子か?

今日は、ちょっとマニアックな計算記事です。

 源義経にはたくさんの愛人がいたようです。

 義経の容姿について、平家物語では「面長くして身短く、色白くして、歯出でたり」「平家の中の選り屑よりも、尚劣れり」と散々に貶(けな)しています。

 まあ、平家物語なので、義経のことを悪く書きたい気持ちは分かりますが、実際はどうだったのでしょうか。同時代に生きた武将 山本義経(本姓が源氏であるため正式には「源義経」で同姓同名) と間違えたとも言われています。

 義経の母親は常盤御前。源義朝の側室で、阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)を産んでいます。源義朝亡き後、平清盛に請われて妾となっています。かなりの美貌の持ち主だったことが分かります。

 常盤御前が生まれたのは、保延4年(1138年)で 没年は不詳とされています。

 1159年、平治の乱が勃発すると、翌1160年2月、源義朝は平清盛に敗れ、討取られましたが、この時、常磐御前は22か23歳だったようです。

 平清盛に請われて妾となり、女子を1人産んだとされています。その後、平清盛は公家の一条長成(藤原長成)に常盤御前を与え、1163年には一条能成を産み、その後、女子を産んだようです。毎年のように子供を出産し続けた常磐御前。これが正しいとすれば、常磐御前は6人の子持ち。肝っ玉母さんです。

 これほど男に寵愛された常磐御前は、やはりかなり美人だったのでしょう。このため、義経もその遺伝子を引き継ぎ美男子だったと考える方が妥当でしょう。

 実際、義経が京都にいたとき、かなりの数の愛人がいたようです。どの文献で読んだのか思い出せないのでこの出典を示すことができません。

 義経が衣川で自刃した時、義経の手にかかり亡くなったのは河越重頼の娘・郷御前。義経の正妻です。

 有名な 静御前 は、義経の側室です。

静御前、鎌倉で出産! 父親はだれ?

 文治元年11月17日、静御前は源義経の都落ちに随行していましたが、​義経主従と別れ、京都へ戻る途中吉野の山中で衆徒に捕らえられました。

 翌文治2年3月1日、当時京都に滞在していた北条時政により静御前は鎌倉に送られます。

 そして、4月8日、頼朝は、鶴岡八幡宮で静に舞を舞わせます。

 7月29日、静は鎌倉で義経の子(男子)を出産します。この子は、頼朝の命で由比ヶ浜に捨てられてしまいます。殺されず捨てられた、という所が重要かと思います。この子供はどうなったのか、というよりも、赤子を捨てたら、当然誰かが拾います。つまり、頼朝の命令は一つのパフォーマンスだったと考えるのが妥当でしょう。

 『吾妻鏡』には比叡山や興福寺が匿っていた記録があるとしています。

 さて、静が7月29日に出産したとすると、身ごもったのはいつなのでしょうか。それにより、この子が本当に義経の子なのかが判明します。そして、頼朝の赤子を浜に捨てるという奇妙な指示の意味が判明するかも。

 和暦では計算が困難なので、西暦に換算します。

 出産 文治2年7月29日 西暦 1186年8月22日 ユリウス日 2154471日 

 WHO(世界保健機関)では妊娠期間は280日±15日と定義しています。

 すると受胎したのは、文治元年10月15日(1185年11月15日) ±15日 と計算できます。

 義経が都落ちしたのが、文治元年11月3日(1185年12月3日)なので、それより少し前あたりでしょうか。

 ということで、静が産んだ子供の父親は義経だろうと推測できます。

 ところで、頼朝が妊婦の静に舞を舞わせる、というエロオヤジ風の行動に出たとき(文治2年4月8日 1186年5月5日)、静は妊娠第何週だったのでしょうか。

 妊娠週数の起点となるのは最後の月経の開始日なので、正確な計算はちょっとできないのですが、だいたいなら分かります。

 計算上は、妊娠5.7ヵ月(24.4週)となります。

 これって、人にもよりますが、結構、お腹が目立つ時期ですね。

 何で頼朝はボテ腹の静に舞を舞わせる必要があったのでしょうか。


Image: 2016年に鶴岡八幡宮で撮影しました。

 鎌倉まつりで毎年、鶴岡八幡宮の神前に「静の舞」が奉納されます。


出典:【鎌倉まつり2014】静の舞 鶴岡八幡宮 舞殿

 当代きっての京の白拍子として名をはせた静。白拍子とは、今様などを歌いながら男装で舞う女性なのだそうです。

 頼朝が身重の静にあえて舞わせた理由は、「雨乞いの舞」により雨を降らせて欲しかったという切実な願いがあったのかも知れません。伝説的ながら義経もその場にいたことから真実と考えられる有名な静の「雨乞いの舞」!

 頼朝が義経の子を殺さなかった理由は、まだ、義経との関係修復の可能性を期待していたからなのかも知れません。まともな家臣団を持たない頼朝にとって、頼りになるのはやはり血を分けた肉親。さらに、都合がよいことに、義経は戦上手だが人望がない。うまく使えばこれ以上ないほどの頼もしい腹心となります。

 別の穿った見方をすれば、静の産んだ子は静の浮気相手の某であることを頼朝は知っていた、とも考えられます。残念ながら当時「文春」はなかったので、真相は不明です。

 頼朝は、(朝廷を通じ)奥州平泉に対し、義経の「 捕縛 」を命じていますが、殺害は命じていません。少なくとも、この時点では。

注)

  • 元治4年(1188) 2月 藤原泰衡・基成に義経追討宣旨。
  •          10月 2度目の宣旨
  •          11月 陸奥・出羽国司に義経捕縛院宣2月

  今回取り上げた静御前のお話は『吾妻鏡』文治二年四月八日条に書かれています。関心のある方は調べてみてください。

なぜ、身重の静に今様を舞わせるのかは朝廷との関係かも?

 当時、京都で権勢を誇っていたのが「後白河院(1127-1192)」です。彼は生涯を通じて今様に傾倒していました。京都随一の白拍子として名をはせた静が舞う行事に、後白河院が無関心でいられるはずもありません。

 頼朝の計略は、静に舞わせることで、後白河院の関心を引くことにあったのではないかと、管理人は考えます。

 歴史に記録が残っている。それは、記録として残すべきだと考えた人が記述したこと。身重の静が白拍子を舞うと言うことは、(頼朝にとって)それなりの意味があったと考えられます。