旧ソ連の学生9名が謎の死を遂げた「ディアトロフ峠事件」の謎がついに解決か?最大の謎に挑む!

冒頭追記します。

2019年8月29日、NHKのダークサイドミステリーで『緊急報告!“死の山”ディアトロフ峠事件』が放映されました。

ダークサイドミステリーは時々面白い作り方をするので期待していたのですが、今回は完全に期待外れでした。フジテレビの番組の足元にも及ばない中途半端なレベルの低い番組でした。

ダークサイドミステリーは、本来、もっと真相に切り込んだ作り方をする番組です。しかし、今回は、まるで素人が作ったような番組構成になっていました。昨年放送されたフジテレビの番組の方がはるかに優れています。

ダークサイドミステリーという番組はとても面白いのですが、ロシア政府が事件を再調査した結果が、雪崩の兆候となる音を聞いたからという推理には爆笑してしまいました。そんなことはあり得ないのです。

それは、彼らがテントからまっすぐ斜面を下っているから。もし、雪崩を恐れてテントから逃げ出したのであれば、雪崩に巻き込まれる危険性が高い斜面を下るはずがありません。雪崩の心配のない、斜面とは別方向に逃げるはずです。

NHKらしからぬ安易な結論。なんともお粗末な番組が放映されていました。

この謎の真相は、管理人が考えた以下の推論が最も妥当なものだと思います。 追記:ここまで。

2020年11月4日放送の「世界の何だコレ!?ミステリー」で、『ディアトロフ峠事件』が取り上げられていました。この番組作りはかなり力が入っていました。この番組をベースに謎解きを始めたいと思います。

プロローグ

世界の謎に関心のある方なら、旧ソ連で起こった謎多き未解決の冬山遭難事件『ディアトロフ峠事件(Dyatlov Pass incident)』のことを一度は聞いたことがあると思います。

1959年2月、旧ソ連の9名の学生が冬山訓練中に遭難し全員が死亡するという痛ましい事故が起こりました。ところが、発見された彼らの遺体が通常の遭難とは考えられない奇妙な状況であったことから、未解決事件として世に名が知られ、人々の記憶に留められることになりました。

この未解決事件がついに解決したかも知れない。そんな内容の番組が、2018年12月6日、フジテレビ『奇跡体験!アンビリバボー:ディアトロフ峠事件60年目の真実』で放映されました。

フジテレビのバラエティなので、お笑いでお茶を濁すだけかと思っていたのですが、今回はちょっとマシな番組になっていました。

この手の『謎』は、一部メディアの報道により情報が歪められる傾向があります。「UFO」や「旧ソ連の陰謀」など、興味本位の番組が最たる例です。

本サイトでは、このような証明できない「仮説」とも言えないような「憶測」をまじめに取り上げることはしません。状況証拠を積み重ねるという手法によりこの謎に挑みたいと思います。

世界中の誰も見たこともない結末を目指して、・・・。5分で書ける「ネタバレ」的なサイトとは違った内容です。

ネタ本の発行は2013年

まず、テレビ局の番組作りの手法に惑わされないために、この番組のネタ本を明らかにした方が良いでしょう。番組の作り手によって必要な情報が隠され、一方的な論理を信じ込まされてしまうことが往々にしてあります。

番組のネタ本になったのが映像ジャーナリストのドニー・アイカー氏の著書「死に山」(Donnie Eichar, “Dead Mountain: the untold true story of the Dyatlov Pass incident”, Chronicle Books, 15 Nov.2013)です。なんと、2013年に刊行された本です。

この本の日本語版が『死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』として2018年8月15日、河出書房新社から出版されました。

「なぁんだ、5年も前に書かれた本かよ」「日本語版が出たのは今年か」

ところがどっこい。英語版と日本語版では内容が違うかもしれません。

実は、英語版 “Dead Mountain” はPDF版が公開されており、全文を閲覧することが可能です。234ページの本です。今、これを読みながらこの記事を書いています。日本語の本は値段が高いので買えない。

これって本当に日本語訳して出版したの? という本の作りなのですが、たぶん、翻訳者がすてきな日本語にしていると思います。英語版234ページ ⇒ 日本語版356ページ。このページ数の著しい違いが、それを如実に表しています。

英語版の目次は以下のようになっています。

この本を読み進めていくと、なぜこのようなおかしな目次になっているのかが分かりました。ディアトロフ隊の行動、彼らの捜索活動、そしてアイカー氏の現地調査がパラレルに進行していく書き方になっています。予備知識のある人にはとても読みやすいのですが、このテーマを初めて知った人には読むのが難しい本です。

そもそも本の目次は、「本の顔」。それなのに、この目次立てはあり得ないと思います。たぶん、本の執筆に不慣れだったのでしょう。でも、それがこの本の魅力かも知れません。

番組の中でカットされている部分をこの英語版の記述で補いながら見ていくことにしましょう。やっと英語版を読み終わりました。

前置きが長くなりました。いよいよ「ディアトロフ峠事件」の謎に迫ります。世界一詳しい「ディアトロフ峠事件」の謎解きを目指して・・・。

「ディアトロフ峠事件」とは

「ディアトロフ峠事件」とはどのようなものなのか。いつものように定説をWikipediaの記述から見ていきましょう。

ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の未明、当時のソ連領ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、マンシ語で「死の山」の意)の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフの名前から、ディアトロフ峠と呼ばれるようになった。

当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていた。 さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出された。

事件は人里から隔絶した山奥で発生し、生還者も存在しないため未だに全容が解明されず、不明な点が残されている。当時のソ連の捜査当局は “抗いがたい自然の力” によって9人が死に至ったとし、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた。 Wikipedia, 「ディアトロフ峠事件」

ここで少し補足しておきます。

「スノートレッキングをしていた」と書かれていますが、これは資格を取得するための試験の一環として行われたもので、彼らはレジャーでトレッキングを楽しんでいたわけではありません。9名とも冬山の経験豊富な者たちで、捜索隊を編成するときも、彼らほど経験のある捜索隊メンバーを揃えることができなかったとされています。

メンバーは10名でしたが、そのうちの一人がトレッキング開始二日目で持病のリウマチが悪化しリタイアします。結果として、彼は唯一の生存者となります。

遭難したメンバーはウラル工科大学の在校生・卒業生を中心とする男性8名、女性2名の計10名から構成されていました。

@なんでも保管庫

上表の最初がリーダーのディアトロフ。表の最後ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディンが生き残った唯一のメンバーです。彼は長年、一切の取材を断り、姿を消しますが、アイカー氏は彼のインタビューに成功します(2013年4月27日没)。

さて、ディアトロフ隊が遭難した場所はどこなのでしょうか。ウラル山脈北側の山中。大部分の日本人は地名を書いても理解不能なので、地図で見ていきましょう。以下、表記は日本語または英語とします。ロシア語で書いても読めないので。

遭難はモスクワの北東1420kmに位置するスヴェルドロフスク州の最北部で起きました。

このトレッキングの目的地は遭難場所から13km北にあるオトルテン山(Otorten、1,234 m)の山頂。遭難場所は、ホラチャフリ(死山:Kholat Syakhl、1,097m)の中腹、標高870m付近。ちなみに、ディアトロフ峠(Dyatlov Pass)と呼ばれる場所は標高775m地点で、遭難場所とは位置が違います。


Image: Google Map

『奇跡体験!アンビリバボー:ディアトロフ峠事件60年目の真実』で放映された内容

番組の内容はフジテレビのホームページに詳しく書かれています。

通常であれば、他のサイトで紹介していることをこのサイトで重複して書くようなことはしないのですが、テレビ局のHPの場合、掲載している期間がとても短く、すぐに削除されてしまいます。すると、それを引用してリンクしているサイトはリンク切れという被害を受けます。

このため、ここではあえてリンクを貼らずに、番組の内容を紹介することにします。出典は、放映した番組および番組ホームページです。できるだけ補足説明を入れて、番組よりも詳しく紹介したいと思います。

今から59年前、1959年1月23日の夜、旧ソ連中部にあるスヴェルドロフスク(Sverdlovsk Oblast)から、10人の若者が冬山登山に出発しました。 目指すは彼らの大学のある州都スヴェルドロフスクから500キロほど北のウラル山脈にあるオトルテン山の山頂です。

なお、このスヴェルドロフスクという都市は、現在エカテリンブルクと名を変えています。

そして、エカテリンブルクと聞いて思い出すのは、1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館でのロマノフ家処刑でしょう。ロシア皇帝ニコライ二世とその家族全員がボリシェヴィキ軍に惨殺された事件です。

パーティーは冬山のエキスパートたちで、隊長のイーゴリ・ディアトロフや、地質学に詳しいユーディン(途中棄権した唯一の生き残り)など男性8名、女性2名の計10名で構成され、彼らの大部分はウラル工科大学で学ぶ大学生と卒業生たちでした。

この登山の目的は単なるレクリエーションではありません。全体のスキーコースは約350kmの長さであり、ソ連の共産党第21回大会を記念して行われたものでした。彼らは、「スポーツマスター」と呼ばれるアスリートを育てる資格の取得を目指していました。 このルートは最高の難易度カテゴリーⅢに区分されるもので、成功すれば全員がその資格を得ることができる極めて重要なテストでした。 隊長のディアトロフは経験豊かで人望もあり、隊員からの厚い信頼を得ていました。

1月23日夜、一行10名は、大学のある州都スヴェルドロフスクからセロフまでの列車に乗ります。

1月24日、セロフに到着。

1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデル(Ivdel)に一行の乗った列車が到着します。一行はバスで、イヴデルから約80キロメートル北方にある最後の有人集落ヴィジャイ(Vizhay)に到着します。

1月26日、一行はトラックを借り上げ41番目の居留地(別名第41地区)と呼ばれる集落に行きます。

1月27日、いよいよオトルテン山へ向け出発。翌28日、リューマチなどの持病を持つユーリー・ユーディンが腰と脚の痛みを訴え途中離脱、一行は9人になりました。

山中に入ってから4日目、2月1日午後4時半頃。 一行はオトルテン山の山頂を望む、ホラチャフリ峠に到達します。


Image: imgur

彼らはここにテントを張ります。なぜこの場所を選んだのか不明です。一説には、彼らは道を間違え、本来ならもっと標高の低いところを通過するはずが、ホラチャフリ山山腹の高い位置まで登ってしまったため、少し下の樹木帯まで降りたくはなかったとの推測もあります。しかし、気温が低いにもかかわらず川の氷は薄く危険なため川を避けたとの見方もあります(後で詳細なルート図を示します)。

彼らはこの丘を風よけにテントを張ります。 ストーブ付きで10人が泊まれる大型のテントでした。

そして、2月2日未明、メンバー全員が命を落とすという悲運に見舞われることになります。

下山予定日から8日たっても、ディアトロフ隊は帰還しません。最初は誰も心配していませんでした。下山が予定より数日遅れることは想定されていました(途中離脱したユーディンは、このことを家族に伝えるのを忘れてしまいます)。

彼らの冬山技術と実績から、明日は帰るだろうと誰もが考えていました。しかし、いくら待っても戻らない。ディアトロフの妹や女性たちの親が心配します。

早速、捜索隊が組織されます。しかし、この段階では彼らはディアトロフ隊が遭難したとは考えていませんでした。捜索隊よりも雪山経験が豊富なメンバーばかりだったからです。

2月26日、捜索隊(学生)は、一行が最後にキャンプを行った峠で、半分雪に埋もれたテントを発見しました。 テントは一部が破れてはいたものの中はまるでさっきまで彼らがここにいたかのような状態でした。無人のテントを発見してもディアトロフ隊のメンバーはどこかに避難していると捜索隊は考えていました。捜索隊は「生きているはずの隊員たち」を探していたのです。このため、テント発見時の状況は記録されず、後の原因究明に大きな支障となります


Image: Wikipedia

翌27日、テント発見場所に集中投下された捜索隊は、テントから20mほど下ったところにディアトロフ隊のものらしい足跡が下に向かって伸びているのを見つけます。 辺りはマイナス30度にも達する極寒の地。なぜテントを離れるような真似をしたのか? 足跡を追って行くと、林の中で二人の遺体を見つけました。

 Image: フジテレビ

(番組の説明は、発見された遺体の順番と距離が間違っています。誤:「テントから1.5㎞ほど離れた所でリーダーのイーゴリ・ディアトロフの遺体が発見された。」⇒正:「テントから1.5㎞ほど離れた所で木の根元に横たわる二人の遺体を発見した」)

その後、テントの1.5キロ圏内から、さらにリーダーのディアトロフ、そして女性隊員のジナイダの遺体を発見します。この日見つけた遺体は計4体でした。

捜索隊は遺体の状況を一目見て、普通ではないことに気づきます。 遺体のほとんどが、防寒着を羽織っていなかったのです。

残る不明者の捜索が続けられ、3月5日にルステムの遺体が発見されます。残る4名の遺体が見つかるのはそれから二ヵ月後の5月5日になります。

9名全員に共通していたのは、発見時、みな薄着で靴を履いていなかったということ。 さらに、明らかに脱ぎ捨てられたと思われる衣服も見つかりました。
(番組のこの説明は間違っています。”みな薄着だった”とか”みな靴を履いていなかった”と多くのサイトで書かれていますが「皆」ではありません。各メンバーの服装については以下で詳しく解説します。)

あまりにも不可解なこの事件、捜査を担当したのが、レフ・イワノフ捜査官です。 死因は9人中6人が、低体温症からの凍死。 谷底で見つかった4人のうち3人は、肋骨や頭蓋骨の骨折など、強い外力を受けたことによる大量出血がその死因だと考えられました。 そしてなぜか、殆どの遺体は皮膚が黒っぽく変色し、中には髪が白くなった遺体もありました。

死因は判明したものの異様な遺体の状況に、謎はかえって深まるばかりです。 そして、最大の疑問は、なぜ彼らは温かく安全なテントから外に出たのかということでした。テントには引き裂かれたような穴が開いていました。

イワノフ捜査官は、彼らの死は事故ではなく、殺人ではないかと疑っていました。

冬山のエキスパートである彼らが、なぜ薄着のまま靴も履かずにテントを離れたのか? 捜査の焦点は、ほぼその1点に絞られます。

そして事件発生から数カ月後、イワノフ捜査官は突如、首都モスクワから呼び出しを受けます。 しかし、捜査本部に戻ってきたイワノフ捜査官は、まるで人が変わったかのように、捜査に消極的になっていたといいます。

5月28日、イワノフ捜査官は、9人の命を奪った犯人について驚くべき発表をします。 それは、「未知の不可抗力」。 事件の原因をそう結論づけ、詳細を究明しないまま、捜査に幕を下ろしたのです。 背景にソ連当局の圧力があったことは明らかでした。 こうして『ディアトロフ峠事件』の真相は、闇に葬り去られることになります。

それから約60年、ロシアでは根強い関心を集め続けている世紀のミステリーの真相を突き止めたと語る人物が現れます。 この事件に迫った書籍「死に山」を著した、アメリカ、フロリダ在住の映像ジャーナリスト、ドニー・アイカー氏です。

アイカー氏は3年に渡り事件を調査。 ロシアを二度訪れ、遺族や関係者、研究者たちを取材。 さらに事件が起こったディアトロフ峠の現場に厳寒の中、足を運びました。 それぞれの説を徹底的に検証した結果、既存の仮説はすべて否定されるという結論に至ります。

熊に襲われた、先住民マンシ族の襲撃に遭った、隊員の人間関係のもつれなど様々な仮説がありましたが、どれも取るに足らないものばかり。現場の状況を説明できる仮説は皆無でした。

ソ連当局が「未知の不可抗力」として、捜査を早期に打ち切ったのはなぜか?

アイカー氏によれば今なお、最も強く信じられている2つの説があるという。

一つは旧ソ連の核実験説。 当時は米ソ冷戦の真っ只中、兵器開発競争が激しさを増していた時代でした。 ウランや銅の鉱脈を見つけ極秘の調査がこの地で始まったのがまさに事件のあった前年のこと。

実は、旧ソ連時代、ウラル山脈の裏側に、弾道ミサイルの発射基地があり、彼らがキャンプを張ったのはまさにそのミサイルが上空を通過する場所でした。

あの夜、核ミサイルの実験が行われ、誤爆。 強い放射線を浴び、失明したことで、パニック状態になったのではないか?

放射線を浴びたため、遺体は黒く変色し、髪も白くなったのではないか? そう疑う遺族は多くいたといいます。

さらに、イワノフ捜査官は、殺人に重きを置きながらも、他の可能性も捨てず、様々な情報を集めようとしていました。 その中の1つに、遺体が身につけていた衣服の放射線量の検査がありました。

彼が「未知の不可抗力」と結論づけた数日後、遺体の衣服から通常の約2倍の放射線が検出されていたことが判明します。 やはり旧ソ連は、イワノフを呼び出し、何らかの核兵器実験を隠蔽するため、捜査を打ち切ったのか?

もう一つの説は、この2倍の放射線を根拠に根強く囁かれているUFO説。 彼らは、UFOに遭遇したのではないか?

その根拠は、放射線だけではありません。 当時、9人を捜索していた人々が、ディアトロフ峠周辺で、オレンジ色の“光の球”が飛ぶのを目撃したと証言。 捜索隊だけでなく、山の麓に住む人々や「マンシ族」からも、目撃報告がいくつも上がっていたのです。

ソ連の核実験説、UFO説、2つの説の根拠になっている「放射線」。 被害者の衣服から、通常の2倍に上る放射線が検出されたのは、紛れもない事実です。

そこでアイカー氏はシカゴ大学放射線科の准教授クリス・ストラウス博士(Dr. Chris Straus)に、取材データを見せ意見を求めます。 すると、通常の2倍という数値は、危険でもなければ異常な高さでもないという答えが返ってきました。 またその程度であれば、大気汚染などによって容易に説明がつくという。 さらに皮膚が変色し、髪が白くなった原因は放射線被ばくではなく、直射日光を長期間浴びたせいだと、専門家が証言します。 事実、最初に発見された遺体でも、27日間、雪原で日光にさらされていました。

では、一体なぜ、ソ連当局は事件の早期幕引きを図ったのか? 事件から30年後、1991年にイワノフ元捜査官は当時の状況について、新聞にこう明かしています。

「ミサイルや核技術に関するデータが漏れるのを恐れて、共産党委員会からそのような問題を取り上げることは禁じられていた。」と。そして、遺族が遺体を見るのを禁止したことを謝罪しました。

彼は、調査チームが事故の合理的な説明を持っていなかったと認め、また、チームが「飛行球」を見たことを報告した後に、高級地方当局からの直接命令を受けて、審問を却下し、その資料を秘密にしておくことにしました。イワノフ氏は個人的には超常的な説明、特にUFOを信じていました。

冷戦のさなか、共産党は核にまつわる情報が国外に漏れるのを恐れていました。 当局は、事件が放射線の影響であることを疑い、あるいは疑われることを恐れ、イワノフに捜査を中止させたようです。実際、最後に発見された4名の遺体搬送を空軍は拒否し、鉛で遮蔽できる容器を要求しました。そしてその要求通り遺体は亜鉛被覆棺に入れられ、ヘリコプターで輸送されます。皆が疑心暗鬼だったのです。

こうして、アイカー氏が3年にわたり数々の説を検証した結果、たどりついたのは全て『不可能』という事実でした。 そこで、最も不可能性が低い答えはやはり、なんらかの自然現象ではないか?と考えます。

彼は、雪崩などではない自然の気象現象が関与しているのではないかと考えました。そこで天気に関連して論文・記事を読むうち超低周波兵器(infrasound weaponry)の存在を知りました。

それは2000年に発刊された「Physics Today」という雑誌の「大気の超低周波(Atmospheric Infrasound)」という記事でした 9)。 著者は、アルフレッド・J・ベダード博士とトーマス・M・ジョルジュ博士(Dr. Alfred J. Bedard, Jr. and Thomas M. Georges)。

アイカー氏はアメリカ海洋大気庁の気象学の専門家、ベダード博士に面会を申し込みます。 博士はこれまで、ディアトロフ峠の悲劇について、聞いたことがなかったそうです。 そこで、アイカー氏は一連の出来事を事細かに伝え、現場の写真を見せました。 すると、ベダード博士は、ディアトロフたちがテントを張った場所の写真を見てこう言いました。 「これは、ヘアピン渦が出来るのに、あまりにも理想的な地形だ。」 それは長年、気象の研究を続けきた博士だからこそ辿り着くことができた、事件の真相でした。
(番組ではここら辺の描写をかなり省いていますが、ベダード博士とともにロシア人研究者も同席しています。ロシアではとても有名な事件だったのでロシア人の関心はとても高かったそうです。)

ヘアピン渦とは、強い風が丸い半球状の障害物にぶつかる時に発生する「特殊な渦」のこと。 渦自体の形がヘアピンに似ているためこう呼ばれ、チューブのように大気を巻き込んでいる。

これはもともと流体力学の分野で観測された現象です。 その後、1990年代に入りメカニズムの研究が進んだものの、現在でも気象現象としての観測例はわずかです。 ヘアピン渦は、周囲の地形に凹凸がなければないほど、パワーが強力になり、風速は実際の3倍にまで達します。 そして、ある程度風が強まると、竜巻に変化するという。 ディアドロフ達は、この竜巻が通過する間にテントを張ってしまった!


Image: フジテレビ

図の説明
1. 風は左から右に吹いています。

2. シート状の風が半円球の丘にあたることでロール状に巻かれ、二つに分かれます。

3. 分かれたロールはそれぞれが竜巻に変化したり、丘を過ぎたところで合体し威力を増します。

さらに、その竜巻は、2分〜3分に1回、彼らの両脇をすり抜けていったと考えられます。 彼らがテントを張った時の風速は、およそ15m/sec、熟練者揃いのディアドロフ隊にとって、それはさほど大きな問題ではありません。 しかし、誤算が生じ、ヘアピン渦が発生したことにより、風はその3倍へと強まります。 ベダード博士によれば、当時の天気図から、その竜巻は風速45メートル以上に達していたと推測できるという。 かなりの強風ではあるが、テントが吹き飛ばされていない以上、直接、竜巻が事故の原因になったとは考えにくい。 ではなぜ、ディアトロフ達は慌ててテントを飛び出したのだろうか?

ベダード博士:「風速45mの竜巻は、地響きを伴い、まるで頭上を旅客機が離着陸するような、恐ろしい轟音を生じさせたのです。さらに、超低周波音を生み出します。」

空気の振動である音には、周波数で測る高さと圧力で測る大きさがあります。ヒトの聴覚では基本的に20Hz以下の音を感知することはできず、20Hz以下の音は超低周波音と呼ばれます。 超低周波音の場合、周波数が低いため、ほとんどの人が聞き取ることができないが、圧力が大きくなると感じることがあります。 そして、この超低周波音は、自然界でよく発生すると言われる一方、人体に影響を及ぼすことも知られています。ベダード博士によれば、超低周波音を感じると頭痛や気だるさだけでなく、時に恐怖を覚えることもあるという。

下図に示すとおり、周波数が20Hz以下の超低周波では音圧が高くてもヒトの耳には聞こえない。


Imege: 労働安全衛生総合研究所

ヘアピン渦が引き起こす竜巻の凄まじい轟音。 加えて、超低周波音がもたらすパニック。 それに耐え切れずディアトロフ達は、風下へと逃げ出した。 だとすれば、冬山のエキスパートである彼らが、なぜ、テントを切り裂き上着も着ず、しかも裸足でマイナス30度におよぶ夜の雪原に飛び出していったのかほぼ全てに説明はつく。

そして、真っ暗な夜の雪原へ飛び出した9名のうち、6名が低体温症による凍死。 脱ぎ捨てられた衣服は、『矛盾脱衣(paradoxical undressing)』と呼ばれる行動だと考えられました。 人は体温が下がりすぎると、皮膚の血管が収縮、体を中から暖めようとする働きが生じる。 すると、体内の温度と気温の間で温度差が生じ、寒い環境下でも、暑いと錯覚に陥ることがあるという。

そして、竜巻の影響もあったのか、4名が足を踏み外し、谷底に落下。 1人は雪がクッションになり、大きな外傷は負わなかったものの、低体温症で凍死。 残る3人は、落下した際、雪の下にあった岩に激突、肋骨や頭蓋骨の骨折など、激しい外傷による大量出血が死因になったと考えられた。 そして、彼らの命が奪われたその場所こそ、奇しくもマンシ族が『死の山』と名付けた山だった。(ここら辺の推理はかなり荒っぽい感じがします。以下で詳しく解明します。)

アイカー氏はこう話す。 「私はこれが、真相だと信じている。少なくともこれが、不可能でない唯一の説だから。」

ベタード博士は、こう話してくれた。 「竜巻が起こっている間、通常ではありえない、非常に強力な超低周波音が彼らを襲ったと考えています。それは何度も繰り返され、中にはその音を感じ取った隊員もいたと思います。竜巻や轟音と相まって彼らに強い恐怖を抱かせたのでしょう。」

以上、フジテレビの番組HPからの引用プラスアイカー氏の書籍に基づき記載しました。

テレビ番組の醍醐味は、このようにインタビューを通して専門家の生の声を聞くことができることです。トンデモ本に必ず登場するうさん臭い誰も知らない “専門家” とは違います。

ディアトロフ隊の行程

最初に、ディアトロフ隊の行動をタイムラインで整理しておきます。

月 日行         程
1959/01/23ディアトロフ隊はSverdlovsk市から電車に乗り、9:05PM にSerovに向け出発する。
1959/01/247:39AM、一行はセロフ駅に到着。午後に彼らは学校No.41で子供たちと過ごす。 夕方、一行はイヴデル(Ivdel)に向け列車で出発。彼らは真夜中頃にイヴデルに到着する。
1959/01/25一行は朝6時にVizhay行きのバスに乗る。 午後2:00にVizhayに到着。彼らは自由労働者キャンプのディレクターの好意により快適な宿泊施設に泊まる。
1959/01/26次の移動手段を待つ間、一行は町の森林官から助言を求める。一行はトラックを使ってセクター41の現場製材所に午後4:30に到着する。 一行は、翌朝朝早くまで労働者の寮で夜を過ごし、歌を歌い、詩を朗読する。
1959/01/27彼らは午後4時まで馬車を持っている男を待ち、別の北部にある今は使われていない地質調査キャンプ地を目指し夜遅くに出発。一行は凍ったロズバ川(Lovza)をのぼる。
1959/01/28凍結したロズバ川に苦労しながらトレッキングした後、まだ暗い早朝、現地に到着。 一行は空の家を見つけ、昼間まで眠る。 その日の午後、健康の悪化したユリ・ユディンは友人との最後の別れをし、帰路につく。 残りのグループは、ロズバ川に沿って北にスキートレッキングを続ける。テントでの最初の夜を過ごす。
1959/01/29一行はロズバ川沿いをさらにマンシ族の道を進んで、凍ったアウスピヤ(Auspiya)川の近くにキャンプを設置。
1959/01/30一行はアウスピヤ川に沿って進み、マンシ族が樹木に記した目印を彼らの日誌に記す。雪が深くなり、スキーが難しくなる。
1959/01/31一行はアウスピヤ川を上流に進む。夜間にキャンプを設営。
1959/02/01半日かけて、一行はオトルテン山登頂に向けパックを軽くするために一時保管シェルターをつくり、いくつかの消耗品等をその中に残す。 その後、一行は午後いっぱいかけてトレッキングし、午後3時にディアトロフ峠として知られるようになる場所に到着。 午後4:58に日没を迎える(日没は午後5時2分説も)。彼らは、標高1,079メートルのホラート・シャフイル山の東斜面にテントを設営する。テントを設営する最後の写真から、それは午後5時頃と推測できる 8)

出典:1)


Image: Colorizations by Anthony Malesys

謎とされていることを整理する

ここで謎とされていることを整理しましょう。

  1. なぜ、安全なテントから大急ぎで逃げ出したのか
  2. テントが内側から引き裂かれた理由は?
  3. メンバーの遺体が距離が離れた数カ所で見つかったのはなぜか
  4. 遺体のほとんどが防寒着も着用していなかったり裸足だったのはなぜか?
  5. テントに防寒着や靴を残して極寒の闇に飛び出したのはなぜか
  6. 数人の遺体に骨折があるのに外傷がないのはなぜか
  7. 一人の遺体から舌が根元からなくなっていた理由は何か
  8. なぜ、より安全な場所にテントを張らなかったのか
  9. 彼らの衣服から検出された放射能とは?

謎とされているのは大体こんな所でしょうか。

しかし、管理人の視点は少し違います。管理人が疑問に思ったこと、関心を持ったことは次の事項です。アイカー氏も書いていない謎です。

  1. なぜ、放射能の測定をしたのか? 遭難者の遺体の放射能測定をするなど通常はあり得ない
  2. 女子二人の死亡場所の位置関係はどうなっているのか。テント内で女子二人は隣り合って寝ていた筈。逃げるときも一緒。死亡場所が違う理由は何か。
  3. 頭蓋骨骨折や肋骨骨折しているのに外傷がないのはなぜか
  4. リーダーの死亡位置はどこか。なぜ、リーダーはそこで死亡していたのか
  5. 全遺体の位置と服装から、各グループが何をしようとしていたのか解明できないのか
  6. 靴も履かずにテントから逃げ出した理由と避難距離との関係をどう説明するのか

ヘアピン渦と超低周波がテントから逃げ出した直接的原因だとしても、まだ分からないことがいくつかあります。

アイカー氏の本を読むと納得できない部分がいくつかあります。彼の推論は現場に残された証拠と一致しない。どこかがおかしい。アイカー氏の状況説明は、管理人からは「雑」と映ります。真相が語られていない。

謎の解明(ディープ・プロファイリング)

いよいよ本サイトの特徴である『ディープ・プロファイリング』を行います。だれも見たことのないやり方で謎の解明に挑みます。

結局の所、最後の疑問「靴も履かずにテントから逃げ出した理由は何か」が、この事件の謎のすべてという気がします。

検出された放射能は、自然界に存在する放射能の二倍程度ととても低いものでした。2人のメンバーの衣類3点から放射能が検出されました。

リュドミラが着ていたクリヴォニシチェンコの茶色のセーターから高い放射能が検出されたとされています。「高い放射能」って、実際のデータはどんな値だったのか。

“brown sweater on Dubinina – 9900 decays/min 150 cm2″ という測定結果があります。3)

一分間あたりに放射性崩壊(壊変)する原子の個数は壊変毎分(decays per minute/ disintegrations per minute : dpm)と呼ばれる。1 ベクレル = 60 壊変毎分、1 壊変毎分 = (1/60) ベクレル = 約 0.0167 ベクレル となる。
Wikipedia ベクレル

同様に、コレヴァトフの上着から検出された放射能の測定値は、

“trousers lower part on Kolevatov – 5000 decays/min 150 cm2”

150cm2 の範囲では、5000壊変毎分(dpm)を超えるべきではないとされていました。3点の衣類から計測されたのは、5000dpm、5600dpm、9900dpmでした。

この値は、当時、地上核実験をガンガンやっていたソ連では特に高いというわけではないようです。この事件の1年半前、1957年 9月29日、旧ソ連のマヤーク核技術施設で 放射性廃棄物の貯蔵タンクが爆発する事故がありました。ディアトロフ峠はマヤークの670Km真北に位置しています。

火球を見たという話から発展したUFOの話は、それ以外の追加情報もなく、推論のしようもありません。

この火球については後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ(Eugene Buyanov)によって証明されています(Wikipedia)。

発見された遺体の色が黒く変色していた、というのは素人の意見。たとえばディアトロフの遺体の皮膚は発見時黒く変色していましたが、解剖時の写真では普通の色に戻っています。検死結果には肌の色⇒青色と書かれているようです。肌の色の変化を疑問視しているのは遺族の方で、検死医はまったく問題視していません。

なぜ、ディアトロフ隊の全員が安全で暖かいテントから、外套も着ないで、靴も履かないで零下30度という極寒の闇夜の世界に飛び出したのか。これが誰も解決できない最大の謎でした。

過去の仮説は、この壁を乗り越えることができませんでした。雪崩説を強引に主張する記事もありますが、そもそもテントが破壊されていないのに雪崩説を主張されても説得力はありません。足跡も残っていたし。テント脇のスキー板も立ったままだったし。

過去のすべての仮説が超えられなかった壁が、「なぜ靴も履かずに」の部分です。靴を履くのにかかる時間は?

これを説明できるのは、超低周波しかないと、管理人は考えます。

これをアイカー氏は「ヘアピン渦」という気象現象で説明しました。断続的に発生する竜巻と強風、それにより発生した超低周波による体調異変がメンバーをパニックに陥れました。強力な超低周波により心臓が一時的に不整脈の兆候を示したのではないでしょうか。あるいは、胸腔の振動から呼吸困難に陥る。これはとても怖い。

風や音だけならその場にとどまる方が安全かもという判断が生まれ、衣服を整える時間もあったでしょう。しかし、身体に直接異変をきたす超低周波は違います。心臓が止まりそうな体調異変と不快感。呼吸ができないような呼吸器の違和感。これって本当に怖い。すぐにその場を離れたい。後のことなど考える余裕もない。心臓が止まれば、呼吸ができなければそれで終わりなので。

極寒の中、防寒着を着ないでテントから飛び出したら数十分もかからずに凍死する恐れがあることは経験豊富な彼らは当然知っていたはずです。そんな彼らが、寝起きの格好のまま極寒の闇夜に飛び出し、脇目も振らずに1500mもの距離を駆け下りたのです。彼ら全員が同時にパニックに陥った原因は、今にも心臓が止まりそうな体調異変を引き起こす超低周波だった、と管理人は考えます。竜巻・暴風や音はパニックを助長する二次的な要因でしょう。現に、テントは竜巻で飛ばされておらず、中の荷物も散乱していません。

恐怖からテントを切り裂き外に逃げ出したものの、その後彼らが採った行動はどのようなものだったのか。

それを理解するために、もう一度現地の地形とトレッキングルートを見ておきましょう。

下のマップはとても優れたもので、ディアトロフ隊遠征の計画ルート、実際のルート、各メンバーの遺体発見場所がGoogle Map上に表示されています。こんなものを作れるなんて凄いの一言!


Source: © DYATLOVPASS.COM

地図上の紫色のラインが予定されていたトレッキングルートでした。ところが1月31日にキャンプした後、翌2月1日にはルートを大きく外れ、ホラチャフリ山の山頂に引き寄せられているようにも見えます。まるで、「死山」が彼らを招いているようです。

また、彼らが逃げた方角がテントの北東であることも興味深い。もし、東に逃げていれば、ディアトロフ隊が全滅することはなかったと思います。山を下るわけではないので、テントに戻るのが楽なのです。

遺体がすべてを語っている

ほとんど注目されないことですが、誰の遺体がどこで見つかったのかが重要な気がします。特にリーダーのディアトロフと二人の女性リュドミラ(リューダ)とジナイダ(ジーナ)の遺体が発見された位置と遺体の状態が重要な鍵を握っているように思います。

リュドミラ(リューダ)とジナイダ(ジーナ)

その理由は、極寒の闇夜の中、軽装で飛び出した彼らはテントに戻ろうとしたのではないか。リーダーはそのときどう行動したのか。女性たちはどう動いたのか。最も遠くまで逃げたのは誰か。

また、二人の女性は男たちがサポートするためグループの中心にいた筈、という見方です。ところが、リュドミラとジナイダの遺体は全く別の場所で発見されました。ということは、グループが二つに分かれたか、離ればなれになったことを示していると考えます。

これらの疑問は、遺体の発見場所と発見時の遺体の状況から推測可能です。

詳細な調査報告から遺体の発見場所と位置関係は明らかになっています。

そして、発見当時に彼らが着ていた服装も明らかになっています。この位置関係と服装を見れば、死亡していった順番も推測できます。先に亡くなった人の衣服を別の人が使ったと考えられます。つまり、この死亡していった順番が明らかになれば、彼らの最後の状況がより鮮明になるのです。

具体的には、リュドミラの足はユーリー・クリヴォニシチェンコのウールのズボンに包まれており、リュドミラのウールのコートとフェイクファーの帽子はゾロタリョフが身につけていました。このことから、クリヴォニシチェンコ ⇒ リュドミラ ⇒ ゾロタリョフの順に死亡していったことが分かります。

番組でも放映し、ネットでよく見かける「みな薄着だった」は嘘です。少なくともテントから最も近くで見つかったジナイダは十分着込んでいました。彼女の遺体はスキースーツ、フードとウールの靴下で靴はありません。厚着の人たちだけ選抜され、決死隊のように寒風吹きすさぶ中、テントに戻ろうとしたのではないでしょうか

遺体の発見場所から、大きく三つのグループに分かれて行動したと考えられます。

ディアトロフ隊はヘアピン渦と超低周波による身体の変調にパニックとなり、テントを切り裂き、着の身着のままの格好で外に飛び出し、1500m下った先にある林まで駆け下りました。その間、何人かが転び、露出している岩で怪我を負います。

雪山のスロープというとスキー場を思い浮かべますが、それは整備された場所です。現地に行ったアイカー氏の記述によれば、岩があちこちに露出していたり、クレバスがあったりで、とても危険なようです。

彼らの足跡から、はじめは一緒に逃げたものの、途中で二つに分かれたことが分かっています。しかし、足跡は平行していため、杉の木のところで合流したものと思います。

林に到着したのは、8人だけ。ルステムがいません(捜索隊の調書には、「テントの下50〜60mに8組の足跡が見つかりました。9番目の痕跡はありませんでした」と書かれています)。ルステムは逃げる途中、前頭部にヒビが入る怪我をしますが、死に至るほどではありません。うつ伏せの状態で見つかった彼の顔の部分には空洞があったことから、怪我で動けなくなり、雪に顔を埋めた状態でしばらくの間生きていたと考えられています。頭の方向がテントを向いていたことから、テントに戻ろうとして息絶えたと考えられます。

雑木林の中の大きな杉の木まで逃れたメンバーたち。ひとまず安全が確認できると、彼らは今後の行動を相談します。ある者はテントに戻るべきと主張し、ある者は夜明けまでここにとどまるべきと主張します。あたりは真っ暗。逃げるときに持ってきた懐中電灯はどこかでなくしてしまいます。(捜索隊によりこの懐中電灯が見つかっています。)

メンバーのポケットの中にあったマッチを使って火をおこし暖をとろうとしますが、強風の中、火はすぐに消えます。燃えやすいものを探し、衣類を切り裂きそれを火種にしようとしますが、強風で消えてしまいます(マッチは常に携帯しているのが常識だったようです)。

テントの位置も分かりません。テントを出るとき、ランタンは付けっぱなしの筈。近くの木に登りそれを見つけようとしますが、ガスがかかっており遠くまで見通すことができません。彼(ユーリー)は5メートルの高さから落下し瀕死の重傷を負います。もう一人のユーリーも薄着のため、凍死寸前になります。

テントに戻るにしても、必死で斜面を駆け下りてきたため、テントからどのくらい離れた位置に自分たちがいるのかも分からなくなっています。

そのうち、最も薄着で飛び出した2名が低体温症で死亡します。林の中の杉の木の根元で2人の遺体が見つかりました。ユーリー・ドロシェンコとユーリー・クリヴォニシチェンコです。

ユーリ・ドロシェンコの遺体

比較的厚着をしていたリーダーのディアトロフとジナイダの二人がルステムを探し、さらにテントまで戻り、皆の分の防寒着と靴などを取ってくることになります(なぜ、二人が比較的厚着だったのか。その答えは「おしっこ」です。)。

二人がテントに戻る行動に出たのは、二人の “ユーリー” が亡くなった後です。ディアトロフは、ユーリー・クリヴォニシチェンコのベストを身につけていました。遺体から剥ぎ取ったと考えられています。

ディアトロフとジナイダがテントに向けて林を出発したのは午前3時過ぎです。

なぜ、そう考えるのか。それはこの日の月の出が午前3時だからです。月が出ていなければ、あたりは真っ暗闇。雪明かりは、月が出て初めて見えるもの。夜、電気を消して布団に潜り込み、白いシーツを見ても何も見えません。

残りの4人は、この場所では風を防ぐことができないため、移動することになります。

テントに向かった2人は、途中で力尽きます。彼ら2人の遺体の頭の方向がテントを目指していたことから、テントに戻ろうとしていたことが分かっています。

リーダーのディアトロフが低体温症で亡くなります。杉の木からわずか300mしか進んでいません。ジナイダはディアトロフの亡骸をその場に残し、先に進みます。


Image: Russian National Archives

ディアトロフが亡くなった場所から180m進んだところで、頭蓋骨にヒビの入ったルステムがすでに息絶えています。

ジナイダがルステムの亡骸を見たかどうかは分かりませんが、あたりは月が昇ったばかりで闇夜の世界です。亡骸のすぐ脇を通過しても彼女には見えなかったでしょう。


Image: Russian National Archives

メンバーの中で最も暖かい服装をしていたジナイダは、さらに150m進みますが、テントまで870mの地点で力尽きます。ジナイダの服装でもテントまで戻れなかったのですから、当時の気象条件が相当厳しいものであったことが窺えます。また、テントに戻ろうとの判断が遅すぎ、寒さでかなりの体力を消耗していたのでしょう。


Image: Russian National Archives

不可思議な4人の遺体の謎

さて、林の中に残ったのは女性のリュドミラ、アレクサンドル・コレヴァトフ、最年長のセミョーン・ゾロタリョフ、そして最後に遺体が発見されたニコライ・チボ=ブリニョーリの4人です。この林から北に75m離れた谷底で4人の遺体が見つかります。

4人は寒さに耐えかね、75mばかり下った斜面で風から身を守ろうと崖の縁までたどり着きます。風はテントのある方角から吹き下ろしてきます。それから身を守るには、斜面を利用して雪洞をつくるのが道具を持っていない彼らにとって唯一の避難策でした。

ここで思いがけない不幸が生き残りの4人を襲います。彼らの足もとの雪が突然崩れ落ち、大量の雪とともに3メートル下の岩場に転落し雪の中に埋もれてしまいます。これにより、全身の至る所が骨折します。外傷がほとんどないのに骨折している理由は、雪の重みによる圧迫骨折と考えられます。彼らの死因は特定されていません。検死医が鑑定書のサインを拒みました。検死医は遺体の不可解な損傷の原因を推測できなかったのです。

先に力尽きたのはリュドミラでした。彼女の死因は不明です。リュドミラの怪我はひどく、ほとんど即死状態でした。

次に亡くなるのはアレクサンドル・コレヴァトフです。死因は低体温症でした。

彼らが3メートルもの厚さの雪の中から見つかった理由は後に判明します。この位置で雪庇が落ち込んでいるのが確認されました。この場所は小川が流れているところで、雪の下には空洞がありましたが、4人の重みで崩れたようです。


Image: gipotezi.ru

雪庇が崩れるときにリュドミラは、雪の崩落により雪の穴に滑り落ち、遺体の中で唯一、身体を起こした状態で発見されました。リュドミラの遺体はひざまずいた状態で、まるで教会で祈りを捧げるような姿勢で見つかりました。彼女の顔と胸は岩に押しつけられた状態でした。彼女の胸部はひどい内部損傷を受けました。さらに雪の重みで肋骨が折れます。

ところが、この仮説では説明できないことがあります。

4人の遺体は折り重なるような状態でまとまって見つかりました。しかし、その近くから木の枝を敷き詰めて床のように造った場所が見つかります。せっかく造ったこの場所を彼らはなぜ離れたのか?


Image source: 7)

実は、これこそがグループの4人の最後の様子を示していると考えられます。

雪面に残された服。これは、ディアトロフたちが戻ってきたときの目印として残されたもののように思います。木の枝を雪面に刺し、そこに服を掛けておいたのでしょう。『矛盾脱衣』などという特異な説明をする必要もない。

次に、木の枝で作られた床です。


Inage: FORUM.FORTYCK.PL


Image: 同上

これは雪面から3.5mの深さで見つかりました。遭難してから三ヵ月後に発見されたものなので、当時の雪の深さは分かりません。いずれにしても、4人は谷の斜面を使って雪洞を掘り、持っていたナイフを使って近くの枝を切り床を作った。14本のモミの木の枝と1本の白樺からできています。そこには、彼らの衣服と持ち物が置かれていました。彼らはこの荷物の上に座って夜明けを待っていたのでしょう。写真から4人分の座席が見えます。

この雪洞は寒さを凌ぐのに役立ちます。その証拠に、着ていない衣服が見つかっています。

彼らは、なぜこの安全な場所を離れたのでしょうか。

この雪洞に入って3時間余り。ディアトロフたちはとっくに戻ってきているはず。そして、自分たちを探しているのではないか。皆でこの雪洞を出て、テントが見える位置まで移動します。既に夜は明け、あたりは明るくなっていました。

最も暖かい服装のジナイダや信頼しているディアトロフが既に亡くなっているとは、彼らは考えもしなかったでしょう。暖かい防寒着を持ち帰る彼らの姿しか思い浮かばなかった。

しかし、テントの方向を見ても人影はありません。仕方なく、雪洞に戻ろうとします。その時です。彼らの足下が突然崩れ落ちます。下には小川が流れていたため、巨大な空洞ができ、その上にスノーブリッジのように雪が乗っていた。それを踏み抜いてしまった。彼らは雪のない空洞に真っ逆さまに落下。頭から岩に激突します。

リュドミラは胸から落ち岩に激突。他の2人も瀕死の重傷を負います。その中で1人だけ比較的軽傷で済んだ人がいます。アレクサンドル・コレヴァトフです。たぶん、彼は、リュドミラの上に落ちたのではないでしょうか。リュドミラは胸だけでなく背中にも打撲傷を負っています。

4人の中で唯一、このアレクサンドルだけが低体温症で亡くなっています。重傷で動けない仲間を助けようと必死だったのでしょう。先に死亡したリュドミラの帽子と毛皮のジャケットを剥ぎ取り、瀕死のゾロタリョフに着せます。

最後に発見された遺体の中に二つの腕時計をはめている者がいました。ニコライ・ブリニョーリです。彼はカーキ色のウインドブレーカーを着ていて、彼の手首には二つの時計があります。1つはPobeda製、もう1つはSportif製です。Pobedaは8時38分に停止し、Sportifは8時15分を指し止まっていました。

この4人は、午前8時近くまで生きていたと管理人は考えます。

Google検索で『ディアトロフ峠事件』と検索すると、検索結果の右側画面にリュドミラの解剖後の遺体の写真が表示されます。あまりにも痛ましい写真。彼女の父親は、葬儀の時に棺の蓋を開けることを特別に許され、蓋を開いた途端、娘の遺体と対面し気絶したとされています(イワノフ捜査官は棺の蓋を開けることを禁じたことについて、晩年に謝罪しています)。

リュドミラの遺体の顔の部分は、ちょうど滝のように流れ落ちる小川の水に長期間浸っていました。このため、軟組織の眼球や舌が失われたと考えられています。リュドミラの顔面はほぼ白骨化しており、舌がなくても不思議ではありません。捜索隊は彼女の遺体を”腐っている”と表現しています。舌がないことだけが着目され、数々の憶測を呼ぶことになったのですが、死後三カ月もの間水に浸かっていれば、他の器官も腐敗していたのでしょう。


Image: Russian National Archives

このグループの遺体発掘では、最初にリュドミラの遺体が雪の中から掘り出されます。日が暮れたため彼女の遺体は翌日回収することになります。そして、回収の日、すぐ近くで折り重なるような状態で3人の男性の遺体が見つかります(資料によっては5月5日に4遺体が見つかったと書かれていますがそれは間違いのようです)。これでメンバー全員の遺体が回収されました。


Image: Russian National Archives をカラー化 (この写真は合成したものです。男性たちが見つかったときには、リュドミラの遺体は回収済みなので、このようなシーンは存在しません。)

この写真からはわかりにくいのですが4人の遺体があります。3Dが下の画像です。


SOURCE: “3D model of the ravine by Vasilii Zyadik

なぜ3メートルもの雪の中から遺体を見つけることができたのか不思議です。写真を見てもよく分からない。

実は、遺体が見つかったのは5月。あたりの雪はほとんど消えていました。雪が残っていたのは渓流周囲の吹きだまりだけです。しかし、雪はかなりの厚さです。たまたま川底に露出していたリュドミラのセーターが捜索隊の目にとまりました。

以上見てきたように、遺体の位置と状況、衣服・靴の状況はこのように説明することが可能です。取りたてて謎だと思えることは何もありません。

結局、この事件の謎は、『なぜ、着の身着のままで極寒の闇夜に飛び出し、1500mもの距離を駆け下りたのか』という一点に集約できます。そのような行動を取れば死に直結することは十分理解していた彼らです。彼らをこのような行動に駆り立てた恐怖とは何だったのか。これまで誰も説明できない謎でした。

そして、この謎を論理的に説明した初めての人物がドニー・アイカー氏でした。

管理人としては、「ディアトロフ峠事件」の謎はアイカー氏の唱える仮説でほぼ解明されたのではないかと考えています。しかし、『1500mもの距離を移動した』理由をアイカー氏は説明していません。

服装の違い

(この項は、「ストーブ」を使っていたという前提で書いたのですが、実際にはストーブは組み立て途中で放置されていました。)

服装について、「みな薄着だった」は間違いであることは上で述べたとおりです。では、薄着の人とジナイダのような厚着の人との違いはどこから生じたのでしょうか。

それは、テントの中で寝ていた場所の違いによるものだと管理人は考えます。

一行は一つのテントに寝泊まりしていました。ストーブを備えたテントですが、9人で寝るにはかなり手狭だったでしょう。

ストーブの一番近くの人はとても暑くて寝苦しい。当然薄着になります。ストーブから一番遠いところに女性二人が寝ました。寒いので着込んで寝ます。真冬の山小屋に泊まったことのある方ならこのことがよく分かると思います。

入り口から冷気が吹き込むのを防ぐため、2重のカーテンのようなもので仕切られていたでしょう。これはひもで縛るもので、簡単には外に出られない。さらに、荷物は同様の理由で入り口に積まれます。

管理人は下図のように考えたのですが、アイカー氏の本によると、ストーブの位置は中央に置かれていたらしい。ストーブの両脇にはYuri Krivonishenko と Alexandor Kolevatov が寝ます。ジナイダとNikolai Vladimirovich がストーブから最も離れた位置で寝ました。

なぜ、テントを切り裂いて外に出たのか。テントの入り口がすぐには開けられない構造になっていたのでしょう。たくさんのひもを解かないと外には出られない。

このように考えると、女性たちが着込んでいた理由も一部の男性がとても薄着だったことも説明できます。

テントの床には最初に8対のスキー板が並べられ、テントのシート、その上に衣類が敷かれ、空のバックパックなどを敷きます。その上にシートが敷かれ、毛布が敷かれていました。

なぜ、テントを切り裂いたのかもこれで説明できます。

彼らは一秒を惜しんでテントから飛び出しました。そのためには、テントのひもを解くなどしてはいられなかったのです。

この世の終わりかと思われるような轟音があたりを包んでいたのでしょう。外に出ただけではなく、一目散に山を駆け下ります。そのようなことをすれば100%凍死することは明らかにもかかわらず、彼らはそれを選択したのです。

数分後、数時間後の凍死よりも、今、身に迫った恐怖から逃れるために。

上のように管理人は推理したのですが、テントを発見した捜索隊の陳述を読むと、どうもこの「内側からナイフで切り裂かれた」という情報は怪しい気がします。

テントに関する捜索者たちの証言は、証言する人によりマチマチ。たとえば、テントの入り口は東で北面が破れていた、という証言がある一方、入り口は北とする証言もあります。

テントは現地から持ち帰るときにずたずたに切り裂かれます。そうしないと持ち帰れなかったのです。テントを内側から切り裂いたという調査結果はテントを首都に持ち帰ってから行われたものです。どの傷が発見時のものか、雪から掘り出す時のものか、持ち帰るときのものか、分からない。「内側から・・」というミステリアスな部分だけが一人歩きをしている典型的な証拠。これを調べるときに使われた傷は小さなもので、人は通り抜けられない。その傷を付けたものが隊員だったという確認をするのはほぼ不可能。とても曖昧な情報のようです。どの傷が捜索隊によるものか確認できないし、捜索隊が内側から切り裂いた可能性もあります。

実は、テントやその周辺の状況についての記録はとても曖昧なものです。これは、テントを発見した捜索隊の学生たちが、ディアトロフ隊は生きていると考えていたからです。現場で見つけたアルミのフラスコに入ったアルコールを飲んでしまったくらいですから。現場保全など頭の片隅にもなかった。

最初にテントを発見したとき、入口は開いていたようです。管理人が推測したような、入口がひもで固く閉じられていたわけではない。ということは、テントを切り裂いて逃げる必要はどこにもありません。ナイフを探してテントに突き刺し、そこから切り裂く? 人が切り口から出るには縦横に切り裂く必要があります。そんなことをしている暇があるのなら、靴を履いたり、防寒着を着たりしたはずです。

「テントを内側から切り裂いた」という情報が間違ったものだとすると、隊員たちは普通に入口から逃げ出したと考える方が、現地の状況から正しいように思います。「テントを内側から切り裂いた」が正しい情報だとすると、北側のテントの支柱が倒れ、メンバーたちの上に覆い被さってきたために、これを切り裂いた。この仮説の方が正しいかも知れません。

この情報の元である調書で、発言者はその内容を確かに陳述したというサインを求められます。サインまでしているから真実だ、と考えるのであれば、各人の陳述内容の矛盾はどう説明するのでしょうか。物事を話すときのロシア人の性格と当時の時代背景も考える必要がありそうです。なにかヘマをするとシベリア送り。陳述内容が本当かどうかは二の次で、自分の捜索活動に何ら落ち度がなかったという点が、報告者が優先したことなのでしょう。テントを発見した2人の学生たちは現場保存という基本的なルールを知らなかった。

テントに残されていたスキー靴の数は、アイカー氏の著書「死に山」によれば6足かそれ以上とあります。別の情報では、7~8足という記述も見かけます。

遺体の状況を確認しても、確かにまともに靴を履いている遺体はないようです。靴を履かなかった理由は、スキー靴では走って逃げられないからではないでしょうか。あるいは、ひもで縛り上げるタイプの靴なので、靴を履くのにとても時間がかかるためテントに残したのではないでしょうか。

ここまで書いたら、なんとストーブは組み立て途中で見つかったという情報を見つけました。管理人の仮説が瓦解します。

この続きは、ストーブの項で書きます。

テント内で見つかったもの

2月26日のテント発見後、テントと中にあった荷物はすべて回収されます。3月3日、Ivdel空港で、テントの中で見つかったすべての物が広げられ、確認作業が行われました。

その内容は以下の通りです。

  1. パーカー  9着
  2. キルティングジャケット( vatnik ) 8着
  3. ファージャケット 1着
  4. ファーノースリーブベスト 2着
  5. シェルパンツ 4着
  6. コットンパンツ 1着
  7. スカーフ 4枚
  8. 手袋(毛皮、布および革) 13組
  9. スキーブーツ 8組
  10. ブーツ( バレンキ ) 7個
  11. スリッパ  2組
  12. ゲートル 8組
  13. スキー帽 3個
  14. 毛皮の帽子 1個
  15. フェルトベレー帽 2組
  16. コンパス 3個
  17. 懐中時計 1個
  18. フィンランド製ナイフ(TiboおよびKrivo製) 2本
  19. 斧(大2、小1) 3本
  20. オーバーブーツ 19個
  21. バケツ 2個
  22. ポット 2個
  23. フラスコ 2個
  24. 応急処置キット 1個
  25. バックパック内のその他の小物(靴下、履き物、マスク、歯ブラシなど)

ジャケットと靴類の大半がテント内に残されていたことが分かります。

事件の発生した時刻

この事件が発生した時刻は不明です。1959年2月2日の未明としか分かっていません。2月1日の深夜から2月2日の明け方までのいつか。

この日の月はほぼ半月です。月が昇ったのは午前3時頃。つまり、彼らは月明かりさえない漆黒の闇の中を逃げ惑ったことになります。林まで逃げたグループは懐中電灯を持っていたようですが、途中でなくしてしまいます(捜索隊がこれを発見します)。

彼らがテントから逃げ出した時刻。この時刻をもう少し絞り込めないでしょうか。

遺体で発見されたディアトロフの腕には腕時計がはめられていました。それは 5:31 で停止していました。時計をはめていた人が死亡し、零下25度の酷寒の中で凍り付いたためでしょう。すると、ディアトロフはその1時間ほど前に亡くなったのではないでしょうか。やはり、午前3時の月の出の後に、テントに戻る決断をしたのでしょう。

この日の日の出は、7:52:56 でした。ディアトロフの時計が止まったのは日の出の2時間ほど前。この日の出を見たメンバーは谷で死亡した4人だけかも知れません。

  • 日付:1959年2月2日
  • 座標:61.754722, 59.462778
  • 標高:1079m
  • 時差:4時間
  • 日の出: 7:52:56

残された疑問:ストーブの謎

アイカー氏の本を読むと、ディアトロフ峠事件の謎はほとんど解決しているように感じます。

しかし、不明な点がいくつか残っています。

そのひとつが、なぜ、ストーブは組み立てられなかったのか。

テントで見つかったストーブは組み立てられていませんでした。森林限界より上でキャンプしたため、使える燃料は持参した分だけでした。周囲で調達することができない状況でした。

しかし、そんなことは最初から分かっています。問題は、この組み立てられていないストーブがテントの中央に置かれていたことです。このことから、組み立て途中で作業を中断したことが分かります。その夜は燃料を節約し、翌朝使うことを考えていたとしても、組み立て作業は終わっていなければ不自然です。ストーブの組み立てには最低でも1時間はかかるようです。

このことから推測できるのは、『異変』は1日の夜、午後10時頃には始まっていたのではないかということです。

彼らがこの場所にキャンプを設営し始めたのは、午後4時30分頃。Holatchahl山の東側斜面にテントを張ります。入口は南向きです。午後9時までに設営作業は完了します。その30分から1時間ほど前、テントの支柱が立てられた段階でテント内部の整頓、ストーブの配置が行われていたでしょう。

このストーブはディアトロフが考案・自作したものです。天井から吊り下げるタイプです。

外で作業をしていた人たちが、作業を終え、テントの中に入ってきます。しかし、ストーブは組み立て途中で放置されている。暖かいストーブを期待していた男たちは怒り出す。ぬれた服で夕食を食べ、その後で乾いた服に着替えます。そのときに異変が起きます。解剖結果は犠牲者は最後の食事後6〜8時間で死亡したことを示しています。午後9時頃夕食、午前3、4時頃に死亡と推測できます。

やはり、この時、ストーブを炊かないという選択肢はなかったように思います。その理由は、靴や防寒着を乾かす必要があるから。濡れた靴を翌日も履いてオトルテン山を目指すのはあまりにも無謀。すぐに凍傷になってしまう。

このように見ていくと、ストーブが組み立て途中だったということは、午後9時から10時頃には、メンバーたちはストーブの組み立てどころではないと実感する異変を感じていただろうと推測できます。

それが『ヘアピン渦』発生の初期段階。風の轟音はますます強まるばかり。ストーブを炊くのは危険との判断があったのかも知れません。煙突から吹き込む風によるバックファイヤーを恐れたのでしょう。薪ストーブを使ったことのある人なら、このバックファイヤーはご存じの筈。焚き口から勢いよく火が噴き出すので、テント内ではとても危険です。

次に疑問なのは、隊員たちはなぜ、テントの中で薄着の無防備な格好をしていたのかということです。異変の程度が徐々に拡大するのであれば、外に逃げ出すことも考え、衣服の準備をしたはずです。しかし、ほとんど誰も準備していなかった。

このことは、彼らの想定を超える異変が徐々にではなく、「突然」襲ってきたことを示していると考えます。その時刻は、午後11時頃だったのではないでしょうか。

ここで、服装の謎解きです。

最初に発見された4名の遺体は検死解剖され、膀胱内に残った尿の量が計測されています。その値は以下に示すとおりです。

  • ユーリー・ドロシェンコ  150cc
  • ユーリー・クリヴォニシェンコ  500cc
  • ジナイダ・ドゥビニナ  300cc
  • イゴール・ディアトロフ   1,000cc

注目すべきは、女性のジナイダの数値です。

狭いテントの中で、夜中にオシッコに行きたくなったからテントを出て用を足す、ということは考えにくい。そんなことをすれば、テント内に冷気が吹き込み寝ている人たちが目覚めてしまう。テントの入口は三重構造になっていました。

このような環境では、排尿してから眠りにつくのが普通のように思います。特に女性は。

ジナイダの膀胱からは300ccの尿が確認されました。まだ尿意は感じないけれど寝る前にはオシッコしておくか、という程度だったでしょう。一方、ディアトロフの膀胱には約1リットルの尿が確認されました。尿意を感じていたと思われます。


image: edit image

尿意と膀胱内の尿の量との関係は、個人差が大きく、詳しくは分かっていないようです。「膀胱の容量は、成人で平均して500ml程度であるが、人によって、約250 – 600ml程度と、個人差が大きい。」(Wikipedia)

しかし、女性たちが防寒着を脱がなかったこととディアトロフが他の隊員より着込んでいたという事実は、この排尿との関係で説明が付くかも知れません。このような視点で分析しているサイトは皆無です。

膀胱の容量

女性たちは寝る前に排尿しようと防寒着は着たままでした。当然、テントの外に出るわけですから、防寒着は着たままです。

しかし、既に排尿を終えていたり、尿意を全く感じていないメンバーは、防寒着を脱ぎ、それを少しでも乾かそうとします。

遺体で見つかったメンバーたちの一部が厚着、一部は薄着だったという服装の違いはこれで説明が付くのではないでしょうか。この仮説が正しいとすれば、異変は彼ら全員が起きていたときに発生したことになります。

ヘアピン渦とは

番組の中で、アイカー氏に原因は『ヘアピン渦』であることを指摘するアメリカ海洋大気庁の気象学の専門家ベダード博士。この人誰?

Dr. Al Bedard and Valerie Zavorotney at NOAA Earth, System Research Laboratory; Dr. Chris Straus, associate professor of radiology at the University of Chicago Medical Center

He was senior scientist and infrasonics group leader at the National Oceanic and Atmospheric Administration (or NOAA) in Boulder, Colorado  1)

ところで、アイカー氏は著書の中で『ヘアピン渦(Hairpin Vortex)』という単語を一度も使っていません。彼が使っているのは『カルマン渦列(Kármán’s vortex street)』です。さすがは日本と思うのは、ネット上に『ヘアピン渦(『カルマン渦)』の書き込みが見られること。テレビをボーッと見ているだけの人たちとは違う人たちがすぐに反応しているようです。管理人も流体力学は学びましたが、ヘアピン渦って聞いたことがない(汗)。


出典:Wikipedia、「カルマン渦」

これを現地に当てはめるとこんな感じになります。YouTubeにアップしました。

 これを解説すると下図のようになります。


Source: 1)

気象学者が判断に使った画像。確かに平坦な地形に見えます。

最後に残された謎:なぜ1500mもの距離を逃げたのか

管理人はディアトロフ隊が安全で暖かいテントを捨て、着の身着のままで寒風吹きすさぶ漆黒の闇夜に飛び出した理由は『ヘアピン渦』と『超低周波』による説明が最も真実に近いと思います。

しかし、どうも腑に落ちないことがあります。

それは、なぜ、1500mもテントから離れたのかということ。この謎は誰も解明していません。

彼らの足跡は、まるで隊列を組んで行進しているように見えます。斜面を転げるように駆け下りているというような足跡ではありません。そもそも雪の中を駆け下りることはできそうにありません。

彼らはなぜ、1500メートルもの距離を下ったのでしょうか。猛烈な突風に背中を押されるように下っていったと思われます。林に着くまで1時間くらいでしょうか。その間に寒さのため体力が急速に奪われていきます。

林まで逃げれば何とかなるという見通しでもあったのでしょうか。

パニックになってテントを飛び出したものの、30分もすればパニックは収まり、冷静な判断ができるように思うのですが、なぜ、立ち止まらず、テントに戻ろうともせず、斜面を降り続けたのでしょうか。彼らがベテランのハイカーたちだからこそ、これが管理人の最後の疑問として残りました。

ヘアピン渦と竜巻が彼らを林まで追いかけてきた。彼らは、林まで下っていくしか選択肢がなかったのでしょうか。冬山に熟練している彼らの行動として、管理人には理解できない部分です。

林に到着して、ヘアピン渦と竜巻の影響を感じなくなり、初めて事の重大さに気づく。このままでは全員が凍死する。

彼らが生き残るための選択肢はひとつしかありません。それは、テントに戻ること。

しかし、薄着で飛び出してきた人たちには、もはや戻るだけの体力が残っていません。比較的厚着だった者たちだけで戻り、衣類を取ってきて再び林に戻ってくる。

でも、この仮説は、「なぜ、1500mもの距離を下ったのか」という問いには答えていません。

ロシア人研究者の中には、彼らは前日、余分な食料や装備を貯蔵した場所(ベースキャンプ)に戻ろうとした、そこまでは15分から20分の距離だったと主張する人もいます。

下の図を見れば、それはあり得ないことが分かります。しかし、彼らが方向を間違えたとしたら。つまり、登ってきた道と同じルートを自分たちは下っていると勘違いしたとしたら、この説はあり得るかも知れません。

2月1日は遅く出発したので進んだ距離はわずか2km(直線距離では1.3km)でした。装備をストックした場所にたどり着ければ、帰りのために保管しておいた食料と簡単な装備、大量の薪を手に入れることができます。彼らは闇雲に坂を1.5kmも下ったのではなく、帰りのために余分な食料や装備をストックしたこのベースキャンプ(labaz)まで戻ろうとしたのではないか。

しかし、杉の木まで降りたら見たこともない地形です。自分たちが方向を間違えたことに気づきます。そして、ディアトロフとジナイダがテントに戻ることになる。暴風と超低周波によるパニックが彼らの方向感覚を狂わせた可能性は否定できません。

これが、テントから1500mも離れた本当の理由なのではないでしょうか。まるで行進するような足跡の理由も説明が付きます。冬山に熟練していた彼らは、闇雲に逃げたのではなく、ベースキャンプを目指していたのでしょう。

極寒の冬山で1500mもの距離を下った理由とは何なのか。当然、薄着の隊員たちにとって、テントにはとても戻ることはできない距離です。

ベースキャンプ(Labaz)にはたくさんの食料と薪もあり暖をとることができる。このLabazは、雪に穴を掘ったのではなく、木で櫓を組み、動物に荒らされない高さに食料を置き、周囲は大量の薪で覆っていました。ここに戻ることができれば、ほとんどの隊員の命は救われたのです。そして、方向さえ間違えなければ戻れる距離でした。

彼らの判断に間違いはなかった。方向さえ間違えなければ・・・。

いろいろな地図を作ってみたのですが、やはり3Dで見た方が現地の状況が分かります。


Source: YouTube “Dyatlov Pass – Map Animation”

気になる日本語のネーミング

この事件のことを日本語では『ディアトロフ峠事件』。ロシア語では『Гибель тургруппы Дятлова(ディアトロフ・ツアーグループの死)』、英語では『Dyatlov Pass incident』と言います。この『pass』を誰かが『峠』と訳したようです。

でも、「そんな峠、どこにあるの?」

事件が起きたのは、『死山(Kholat Syakhl)』の中腹の緩やかな斜面です。どこにも『峠』などありません。「ディアトロフ峠」で起きた事件かと誤解してしまいますが、ディアトロフは、グループのリーダーの名前です(後になって現場に向かう山道はDyatlov Pass(ПеревалДятлова)と名付けられました)。

現地で名付けられた『Dyatlov Pass』とは、テントの位置ではなく、もっと下にある鞍部(あんぶ:コル)を抜ける山道です。一般的に「点」のイメージがある「峠」とは異なり、この鞍部を通り抜ける山道全体を指しているようです。

本来であれば『ディアトロフ隊遭難事件』とするのが良い気がします。

追記:ルステムの時計

管理人は、ルステムの遺体の状況から、斜面を下る途中で転倒し、岩に頭をぶつけて脳しんとうを起こしたと考えました。彼の側頭部にはヒビが入っていました。このため、彼だけがグループからはぐれたため、一人だけテントに戻ろうとしたと考えました。

テントに戻る途中、斜面を這うように登る動作の中、頭にヒビが入るほどの怪我をするとは考えにくいからです。怪我は斜面を下っているときに負ったものでしょう。

ところで、ルステムの腕時計は、8時45分で止まっていました。

この時刻は、止まった複数の腕時計の中で最も遅い時刻を示しています。

もし、この時刻の近くまで彼が生きていたとしたら、メンバーの中で最後まで生きていたのはルステムということになります。しかし、それはあり得ない。

本稿で提示したすべての仮説を見直す必要があります。

エピローグ

管理人が知っている「謎」の中でも筆頭格の今回の謎。

「アンビリバボー」という番組をきっかけに、この謎に挑んでみたのですが、いかがだったでしょうか。

世界の関心を集め続ける『ディアトロフ峠事件』ですが、少なくとも日本では解決した問題として扱われそうです。

もし、彼らが逃げ出した方角が北東ではなく緩傾斜の東だったとしたら、1500mも離れた場所まで下ることもなく、全員がテントに戻って来られたでしょう。

もし、彼らがベースキャンプの方向に逃げていれば、多くの隊員は生き延びることができました。

もし、この場所にテントを張らなければ、このような遭難に遭うこともなかった。

もし、もし、もし、・・・。

管理人はこの記事を書くためにネット上の多くのサイトを閲覧しました。その結果、いくつかのサイトがとてもまじめにこの事件のことを調べていることを知りました。詳しく調べているロシア語のサイトがいくつもあります。英語版で詳しいサイトはロシア語サイトのコピーかロシア人の英語による情報発信のようです。

遺族の方々は政府の下した調査結果を受け入れることができなかった。このため、財団まで設立し、UFO説やミサイル誤爆説も含むあらゆる可能性が検討されてきました。このような説は、現代のオカルト愛好家が唱えた説かと思ったら、当時からささやかれていたものでした。鉄のカーテン下の旧ソ連では政府の隠蔽工作は日常茶飯事のため、遺族たち関係者は政府の発表は信じていません。鉄のカーテンとは西側諸国との境界にあっただけでなく、ソ連国内もこれにより覆われていたのです。

この財団の目的は、ロシア政府に対し、事件の調査を再開し、ディアトロフ峠事件の記憶を永遠にとどめるために、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持することにあるそうです。

普通に考えれば、当時の天候でミサイルの実験などできるはずもないこと。その理由は簡単。実験の結果が分からないので実験にならないから。仮にも放射性物質を積み込んだロケットを発射するのであれば、その結果を知ることが最も大事。ヘマをすればシベリア送りなので、実験結果が分からないような試験をするはずもありません。陰謀説を唱える人たちの欠点は、自説に酔い、周囲の人たちの気持ちを完全に無視することでしょう。

リーダーであるディアトロフが亡くなる瞬間、どんなことを考えていたのか想像すると胸が痛くなります。

「ボルシチが食いたい」、「オシッコがしたい」ではなく、隊のリーダーとしての責任感と他のメンバーの安否だったように思います。方向を間違えたのはディアトロフだったのかも知れません。

二人の女性隊員が亡くなった位置は、テントに最も近い場所と最も遠い場所となりました。

本記事の初稿では、女性二人は一緒に逃げたという仮説を立てました。しかし、様々な状況証拠から、二人はバラバラに逃げたのではないかと考え、本文の構成を変更しました。

9人の若者たちがなぜ亡くなったのか。この不可解な事件は、遺族を苦しめることになったと思います。殺人事件の疑いもあったのですから、遺族にとって、事件の真相究明は待ち望んだことだったでしょう。

おもしろおかしくUFO説を唱える人もいれば、アイカー氏のように真摯に事件と向き合い、この謎を解決しようとする人もいます。未知の自然現象が「ヘアピン渦」であったというアイカー氏の結論は、遺族の方々の慰めになるように思います。

彼らの死は不可抗力だった。遺族の方が最も期待した真相でしょう。

以前書いた『コティングリー妖精写真の謎を追う!』という記事で、コナン・ドイルが最後まで妖精写真は本物と主張し、撮影した二人の少女を守ろうとしたことを紹介しました。第二次世界大戦で多くの戦死者を出しているイギリスにおいて、心の安らぎを与えてくれる存在こそ重要でした。それが真実かどうかよりも。

コナン・ドイルは、そのことをとても重視しました。霊の存在を否定できても遺族には何の役にも立たない。むしろ、霊は存在すると信じることで遺族の心の安らぎが得られるのなら、それでいいのではないか。ドイルはそう考えていたようです。

アイカー氏の説が本当に正しいかどうかは分かりません。しかし、遺族など関係者にとっては心安まる説なのではないでしょうか。誰も予想できなかった自然の猛威。ディアトロフ隊に落ち度はなかった。遺族らがそう思える仮説のように感じます。

謎の解明と言っても、結局の所、本当に解明されたのかは誰にも分からない。どうせ分からないのなら、誰も傷つく人がおらず、関係者も納得できるような仮説こそ、望まれる「謎の解明」の姿なのかも知れません。

ふと、2005年5月18日、南米チリでアンデス山中で訓練をしていたチリ陸軍の兵士が大雪で遭難、45名が死亡した『アンツコの悲劇(Tragedia de Antuco)』を思い出しました。気温はマイナス30度。ディアトロフ峠と同じ気温です。

まるで八甲田山遭難事故を彷彿とさせるような出来事でしたが、日本では知っている人はほとんどいないようです。当時の新聞報道もすべてリンク切れで見ることができない。まだ13年しか経っていないのに、忘れ去られた事件です。この時の検死で、低体温症で死ぬまで2、3時間という報告があります。素人の寄せ集めの知識ではなく、現場の検死医の調書は尊重すべきでしょう。

今回の記事で、管理人としては謎はすべて解けたと考えています。たくさんのサイトの記事を読み、今回の記事を書きました。残された謎はないと思います。最後まで分からなかった1500mの謎も、上述した仮説で説明が付くと思います。

最後に、亡くなられた9名の若者のご冥福をお祈りして、筆を置きます。

管理人にとって、長い長い執筆期間でした。やっと書き終えてホッとしています。

このような視点でこのテーマを書いているサイトは、世界でここだけです。たくさんのサイトを閲覧したので、自信を持って言えます。そして、この記事が、他のサイトより最も合理的な説明になっていると思います。

説明がとても長くなるのを避けるために説明の一部をはしょっています。しかし、必要な情報は盛り込んだつもりです。

図書館に予約しておいた『死に山』をやっと手に入れました。

この本を読んでいると、謎とされている事柄を本当は誰もまじめに調べていないことが分かります。

ディフトロフ隊の遭難の原因を推測する人たちの誰一人、冬のホラート・シャフイル山に登った者はいなかった。ドニー・アイカー氏を除いては。

旧ソ連は民間人が短波無線機を持つのを禁じていたそうですが、実際には、公式には違法だが、ディフトロフが無線機を所有していたこと、外国の放送を聞くことは、それがすぐれた文化的情報と見なされるかぎりは、そして、ブルジョワ的あるいは反ソビエト的なプロパガンダでないかぎりは、黙認どころか奨励されていたほどだ(『死に山』p.71)。

「論理的に推測可能」なのは、推測に用いる情報が全て正確な場合であって、その中の一つでも間違っていたり曖昧な情報であったなら、論理的な推測と思い込んでいたことは、実は非論理的な推測かもしれない。

出典:

1) “Dead Mounta