NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で佐藤浩市が演じた『上総介広常』。
『上総介広常』についてはWikipediaに詳細が書かれています。でも、おかしい!
Wikipediaによれば、上総介広常が死没したのは、「寿永2年12月20日(1184年2月3日)」と書かれています。でも、これって間違いですね。
何が間違っているのか。こんな日付けは存在しません。
まず、和暦が寿永2年12月20日であるのなら、西暦では1184年2月10日になります。2月3日ではありません。
西暦1184年2月3日は、和暦では「寿永2年12月13日」になります。
では、正解は? 上総介広常が死没した日付けはいつ?
吾妻鏡には上総介広常暗殺の記述があると考えられる「寿永二年癸卯(みずのと う)」が欠落しているため、日付けはありません。『愚管抄』に書かれているのでしょうか。どうも日付けはないようです。
寿永2年12月20日に暗殺されたという定説があると書いている人も、その根拠は示していません。根拠もないのに “定説” とは? 誰も知らない定説の根拠! ここでも怪しい定説が出てきました。
Wikipediaで 8) として出典に挙げる『一宮町史』(1964年3月3日発行)46頁には、「広常の殺されたのは、寿永二年十二月のことであった。」とだけ記載されています。
同書のP590、林天然氏執筆の「一宮豪族 平廣常」に、「壽永二年十二月二十二日廣常を営中に招き、何気なく双六をたたかわせ、油断をみて景時一刀を抜き、廣常の頸を打ち落としてしまった。」とあります。しかし、この日付けの出典は書かれていません。今度は、寿永2年12月22日説の登場です。
一宮町ってどこだ? 上総介広常の本拠地、千葉県長生郡一宮町のことでした。この町史の記述を読むと、とてもよくまとめられていて、ネット上で見かけるこの時代についての記述はこの『一宮町史』からの引用ではないかと思えるほど。『一宮町史』は、(登録していれば)国会図書館で閲覧可能です。また、一宮町役場が公開しているので、pdfをDL可能です。
いろいろ調べてみても、上総介広常が誅殺された日付けの出典を見つけることができませんでした。寿永2年12月20日説と寿永2年12月22日説があることは分かりましたが、どちらの説も出典にたどり着くことができません。
そもそも論を書けば、この時代の史料ってほとんど残っておらず、歴史家は吾妻鏡と愚管抄で歴史を紡いでいるのが実態。これに書かれていないので、広常が誅殺された日付けは不明、ということなのでしょう。定説が笑えるけれど。
両方の日付けの正確な出典(誰がいつ頃書いた史料か)をご存じの方がいたら教えていただけるとうれしいのですが。
こんなものを作ってみました。