義経が屋島に向け渡辺津を出港した時の記述が理解できない

 義経は、四国・屋島の平家討伐のため、元暦2年2月16日(1185年3月26日)未明、強い北風の中、百五十騎余りを乗せた五隻だけで漕ぎ出しました。

 5隻の船に150人の武士。一隻あたり30人? 違いますね。「百五十」なのですから、一隻あたり30人の武士と30頭の馬ということです。

 それに、船の漕ぎ手・船頭も必要です。どれだけ巨大な船だったのでしょうか。そんな巨大な船を漕ぐための漕ぎ手は何人必要なのでしょうか。

 平家物語絵巻には、オールが4本あります。漕ぎ手と舵取りで計5人ということなのでしょうか。そんな人数では巨大な船は全く動かないと思います。これは、過去に行われた古代船の実証航海でも判明していることです。

平家物語絵巻 巻第11 逆櫓 colored image

 そもそも、絵巻には馬が描かれていません。馬はどこにいるのでしょうか。四国・勝浦に上陸してすぐに活躍する馬です。

 さらに、四国に上陸する際に矢を射かけられないように、渚の近くで事前に馬を海面に下ろし、それに騎乗した武者が敵を蹴散らす。

 どうやって馬を船から海面に下ろすのでしょうか。それをだれかやったことがあるのでしょうか。どう考えてもそれは不可能に思えます。当時の和船に上陸用舟艇のような構造はありません。

Image:屋島の戦い, Wikipedia

 屋島の戦いについて、まるで見てきたかのような記述をネット上で見かけます。その出典は、すべて平家物語です。大抵のネット記事では、出典については一切書かれていませんが。

 150人の騎馬武者を運ぶ5隻の軍船。一艘あたり30人の武者と馬30頭、そして漕ぎ手。日本在来馬の体重は350kg~400kg。当時の大人7~8人分の重量です。馬の体重を人間換算すれば、戦闘員として240~270人が乗っていたことになります。さらに、漕ぎ手がこれに加わります。

 どれだけ大きな船だったのでしょうか。

 義経の軍団は騎馬武者だけだったのでしょうか。

 いやいや、平家物語の記述にある150騎とは、騎馬武者と歩兵も含むのだから、・・・という話が聞こえてきそうです。では、その根拠を示して下さい。それは、どの史料に書かれているのか。

 感想文ならよそでお願いします。

 これまでの説明で、平家物語の記述がおかしいのではないかと気づきます。

 たぶん、重要な部分が抜け落ちているから、つじつま合わせの話になる。

 考えられるのは、軍馬は事前に四国に輸送していたということ。この仮説が正しいとすれば、四国側で手引きをしていた勢力があるということです。近藤親家とは勝浦に上陸してから味方につけたことになっていますが、事前に凋落して、軍馬を送っていたと考えた方が辻褄が合います。

 義経は、突飛な行動を採る司令官のように考えられていますが、実際には用意周到。勝算があるから行動に移している慎重派のように感じます。

 一ノ谷の合戦の鵯越の逆落としでは、義経自身はこれに参加していないようです。壇ノ浦の合戦では、鎧をたびたび替えて総大将として敵に特定されないようにしていた。さらに、事前に海賊を仲間に引き込むという手順を踏んでいます。

 義経の奇策ばかりが後世に伝えられていますが、実際には用意周到で勝つべくして勝っているように思います。たまたま奇策で勝ち続けたわけではない。だから頼朝が恐れた!

 話を戻すと、実際に義経が乗った軍船は武者20人乗り程度だったのでしょう。漕ぎ手は10人程度。最低でもこのくらいは必要です。合計30人分の体重を乗せた木造船を漕ぐには最低でも10人の漕ぎ手が必要でしょう。当然、馬は別便で送ることになります。

 そもそも、船から海面に馬を降ろす手段もないのに、平家物語の創作を信じている人もいるようです。馬はとても神経質な生き物。平家物語の作者が考えたようには動いてくれないのです。騎馬武者は当然それを知っていますが、平家物語の作者は知らない。