新5000円札は一葉から梅子へ:それって誰?と思った人のための動画

 2024年、新札が出回ることになります。 5000円札の肖像は、樋口一葉から津田梅子に変更されます。

 管理人の視点では、梅子は明治4年、北海道開拓使の予算を使いアメリカに留学した5歳の女の子の一人です。

 10年後に帰国した梅子は日本語を話せない。渡米する年齢が早すぎたということでしょう。

 一緒に渡米した山川捨末とは全く違います。捨末は会津藩家老の娘。

 では、梅子は?

 徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜の跡を継いだ徳川宗家の当主が徳川家達(いえさと)です。世が世であれば第16代将軍になっていた方です。

 実は、津田梅子は徳川家達と従兄妹関係にあります。二人の母親が姉妹なのです。

 梅子が米国から帰国してすぐ、同じく英国留学から帰国したばかりの家達と面会しています。その傍らにいたのが天璋院篤姫!! 家達の帰国を待ちわび、彼の許嫁まで準備していた方です。 (英語しか話せない)梅子と家達の会話は英語で行われましたが、楽しい時間を過ごしたようです。

 ここで不思議なのが、梅子の金策です。梅子は生涯、金策に追われていました。後に津田塾大となる女子英學塾の運営費が逼迫していたのです。何度か渡米し、募金を募り、何とか学校を維持できました。

 あなたは不思議ではないですか?

 渡米などせずに従兄の家達を頼ればいいのに! あるいは、同じ新紙幣になる(明治期の慶喜の信頼が厚かった)渋沢栄一を頼ればいいのに。さらには、岩倉使節団が同乗したアメリカ行きの船で旧知の仲であり、帰国後に娘の家庭教師まで務めた伊藤博文を頼ればいいのに! さらに、大山(山川)捨松も瓜生(永井)繁子もいます。

 通常、こんな豪華な人脈を持っている人はいません。それなのに、梅子はこれを資金獲得に使った形跡がない。

 津田梅子に関する書籍を読むと、教育者としての梅子に偏っており、人脈が見えてきません。

 梅子は、父親、津田仙をひどく嫌っていました。その原因は、帰国した梅子の渡航費用の残金をよこせと言われたからのようです。老齢になった梅子は津田家の墓に入ることを拒み、最終的に津田塾大のキャンパス内にお墓が造られることになります。

Image: @なんでも保管庫、津田仙・初の墓、青山霊園

 「トイレの花子さん」ならぬ「津田塾大の梅子さん」伝承が言い伝えられているようです。生涯独身だった梅子にまつわる伝承です。

 かなりはしょった記述になりましたが、帰国後の梅子の周囲の雰囲気が少しだけ分かったのではないでしょうか。

 明治4年の渡米当時に6歳の幼女だった梅子は、帰国時には美人に成長していました。どれほど美人だったのかは、下の動画でご確認ください。

 まあ、梅子が美人だったかどうかは置いといて、・・・、やはりカワイイ!

 もしかしたら、家達に会った梅子は家達に一目惚れしたのかもしれません。しかし、家達は結婚ほやほやの既婚者。そばには、自分が選んだ家達の許嫁と結婚させた天璋院篤姫が控えています。

 そして、梅子はお出入り禁止! 手塩にかけて育てた大切な家達に日本語も話せない”悪い虫”、梅子が近づくのを嫌います(管理人の勝手な推測です)。しかし、天璋院は、梅子の帰国からちょうど一年後の1883年11月20日に亡くなります。 

 ここで、勝海舟が登場すると、話はおもしろくなるのですが、残念ながら、勝と梅子との接点は確認できません。しかし、梅子の父親津田仙と勝海舟との接点は容易に確認できます。勝の日記に津田仙の名前が時々登場します。

 津田仙という人物は、いろいろな要人の伝記・日記の中に登場する不思議な人です。

 たとえば、大田区にある勝海舟のお墓の脇に置かれた水船(手水石)。これに寄贈者の名前が彫られていますが、その中に津田仙の名前を見つけることができます。

 関心のある方は、過去記事「勝海舟が住んだ屋敷跡とお墓に行ってきました」をご覧ください。

樋口一葉

 現在の五千円札の肖像に使われている樋口一葉。一葉(奈津)は、梅子らがアメリカ留学に出発した翌年、1872年5月2日に生まれました。そして、1896年11月23日、24歳の若さで病没しました。

 一葉の写真は数枚しか残っておらず、五千円札の肖像を見てもお顔とか雰囲気さえもよく分かりません。

 そこで、こんなものをつくってみました。