混沌としている「義経伝説」の実態|だから面白い!

 現在、管理人は「義経は衣川で死んだはずがない」というコンセプトで調べているのですが、作業は遅々として進みません。

 その原因は、歴史学者がいい加減な文章を書いているからです。そこに書かれている出典にあたり、この記述は正しいだろうと思った矢先、別の書物の出典ではそれを覆す事柄が明確な出典とともに書かれている。

 そんなことの繰り返しです。作業が全く進みません。

 義経が衣川で自殺した、とされる根拠をご存じでしょうか。少し詳しい方は、すぐに、それは『吾妻鏡』に書かれていると答えるはずです。多くの書物にもそのように書かれています。

 しかし、そのようなことは本当は吾妻鏡』には書かれていないとしたら、どうでしょう?

義経が衣川で自殺したとは『吾妻鏡』では断言していない

 義経が衣川で自害したとする出来事は歴史的文献に書かれている。それが『吾妻鏡』、と信じている人がいるようですが、吾妻鏡にはそのようには書かれていません。

 そもそも『吾妻鏡』全体の中で義経(豫州、etc)が登場する部分は、(管理人が数えた結果では)全部でちょうど100箇所ありますが大半は系譜で義経の行動を記載したものではありません。義経についての記述はほんのわずかに過ぎません。

 問題の義経自殺の記述は、「吾妻鏡 第九巻 文治五年(1189)己酉二月大」によるもので、そこには、次のように書かれています。

「文治五年(1189)閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。」

 漢字ばかりで読みにくいのですが、よく見ると(現代語訳をしなくても)意味が分かるはずです。”豫州(与州)” とは義経のことです。

 問題となるのは、最後の「云々」の部分。これを現代語訳すると、「(人から聞いた話では)~だってさ」、という意味になります。

 つまり、『吾妻鏡』では義経の死因をあえて伝聞として記載してあるのですから、「義経が自殺したと第一級の歴史書『吾妻鏡』に記載されているから間違いない」、という主張は成立しないことになります。

 歴史学者は、このような自分にとって都合の悪いことは決して説明しません。良心的な学者は、それを匂わす記述をしています。しかし、いずれにしても卑怯な方法であることは否めません。『吾妻鏡』では、「義経が自殺した」とは書かれておらず、「義経が自殺した・・と(誰からか)聞いた」という記載なのです。

 ところが、義経が自刃したという根拠は『吾妻鏡』に書かれている、とネット民は信じているようです。

 このような知識のもと、もう一度、歴史書を読んでみてください。執筆者が苦労して記述しているのが分かるはずです。これを断言している著者はかなり危ない人で、著書の内容は全て疑う姿勢が必要となります。結局、その程度の著者ということです。

 『吾妻鏡』の成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃とされています。義経が亡くなったとされるのが1189年ですから、110年余り後に書かれた書物です。当然、書かれている内容は全て伝聞です。では『吾妻鏡』では、記載内容にすべて「云々」が使われているのでしょうか。

 たしかに、『吾妻鏡』では「云々」という表記が多いと感じますが、全ての出来事に「云々」が使われている訳ではありません。もし、「云々」を全ての箇所で使う、そんな書物があるのなら見てみたいものです。まさに「おバカな書物」です。むしろ、「云々」がどこで使われているのかを研究すべきかも知れません。管理人はやりませんが。

 以上述べたように、義経が衣川で自殺したという歴史的根拠は存在しないのです。根拠史料に「これは伝聞です」と明確に書いてあるからです。もし、「義経記」に書かれていると主張したいのなら、その執筆者や書かれた年代を特定すべきです。こんな基本的なことが何も分からない「義経記」を根拠にされても困ります。

 ついでに書くと、義経を襲撃した泰衡の兵は「數百騎」とあります。これを勝手に膨らまして数千騎、数万騎と書いてある文献があります(しかもたくさんある)。お笑いの世界です。

「義経=ジンギスカン説」の情報がむちゃくちゃ

 「義経=ジンギスカン説」というものがあります。誰もがそんなはずがないと考えるし、管理人もそう思います。

 では、その説は偽物なのかと問われると、それを証明する書籍がない! 「えっ!」の世界です。

 義経が大陸に渡りジンギスカンになったなど荒唐無稽な話は、その不可能性をとっくの昔に誰かが立証しているのかと思っていたのですが、どうやら違うようです。

 ざっと調べた限り、靴の上からかゆいところを掻く程度の研究しかしていないように感じました。

 「義経=ジンギスカン説」、「北行伝説」についても調べているのですが、その根拠は、小谷部全一郎 ⇒ 末松謙澄「義経再興記』⇒ シーボルト ⇒ 新井白石『蝦夷志』 ⇒ 「大日本史」 ⇒ 「本朝通鑑」・・・ ⇒ 室町時代に書かれた『御伽草子』の「御曹子島渡」、とさかのぼることが可能です。

 ところで、 末松謙澄の『義経再興記』。後にベストセラーとなる小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』が書かれるきっかけとなったとされる本なのですが、ネット上には奇妙な記述が蔓延しています。

 具体的に見ていきましょう。 末松謙澄の『義経再興記』の刊行について、Wikipediaには次のように書かれています。

「翌明治11年(1878年)にイギリス留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習となって2月10日に渡欧、4月1日にロンドンへ到着、外交官として赴任することになった。 イギリス滞在中はしばらく公使館に勤務していたが、歴史の勉強に集中するため明治13年(1880年)12月に依願免官、翌明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した。留学中はラテン語・ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で悪戦苦闘していたが、明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。在学中は文学活動が顕著で、明治12年(1879年)に「義経=ジンギスカン説」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。また明治15年(1882年)に最初の「源氏物語」の英訳を書いたり、イギリス詩人の詩を多数邦訳したりしている。1884年にケンブリッジ大学を卒業した。」(Wikipedia)

 Wikipediaの記述が正しいとするのなら、末松が『義経再興記』を書いたのは、ケンブリッジ大学に入学する前のこと。ところが、これは、末松がケンブリッジ大学の卒論で書いたものが出版されたという記事がネット上に出回っています。東大の先生もそのように書いているので困ります。

 こんなこと、どちらかが間違っているということです。どちらも正解という選択肢はないでしょう・・・(これがあるから怖いのです)。

 たぶん、Wikipediaの記述が正解のような気がします。末松の系譜から考えて、卒論を出版したという記述は誤りでしょう。

 早速確認してみます。

末松論文の謎の真相

 まず、末松謙澄がイギリスで出版した書籍のタイトルは、 ‘The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsunè ‘ です。この本の発行年は1879年となっており、Wikipedia の記述と一致します。つまり、この本は、卒論として書かれたものではないと言うことが確かめられました。

‘The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsunè ‘ 表紙

 ところがです。末松はこの本を卒論として提出したのではないか、あるいは、一部書き直して提出したとのではないかいう可能性があります。もし、そうであるのなら、『義経再興記』を卒論で書いたという記述自体に誤りはありません。

 誤っているのは、卒論が和訳され、日本でベストセラーになったというくだりです。

 日本で『義経再興記』が出版されたのは、明治18年(1885年)のこと。末松が出版したわけではなく、内田彌八が翻訳して明治18年1月脱稿、出版したようです。本の題字は山岡鉄舟筆によるもの。(この書籍を閲覧したのですが、管理人にはとても読めません。最初からあきらめました。)

 翻訳した元本は、卒論ではなく、明治12年の出版バージョンであろうと推測できます(内田の書籍と末松の書籍を比較してみたのですが、明治の文章はよく分からない。英語の方がわかりやすい!)。

 ちなみに、 ‘The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsunè ‘ は本文が147ページの結構ボリュームがある本です。これを日本語に翻訳しようとすると、翻訳が速い人でも出版レベルの翻訳には数ヶ月、実際には1年以上かかると思います。

 そのうち読んでみようと思うのですが、・・・。この書籍はかなり本格的なものです。当時の末松が英語で書けるとは考えられません。このネタバレは、当時の英国プレスが支援していたようです。文章の校正などお手の物だったのでしょう。19世紀末の英語の教材として使えるかも。

 読み進めると奇妙なことに気づきます。この書籍は誤字・誤植がほとんどないという優れものなのですが、日本人の名前に頻繁に誤字が見つかります。たとえば、’Yasuhira’(泰衡) ⇒ ‘Yasuhara’、’Mr. Yoshikawa’(吉川) ⇒ ‘Mr. Yoshikowa’ など。この本の英文は、末松が書いたものではなく、在英日本公使館の翻訳官(英国人)が末松の日本文を英語に翻訳したものだと思います。末松がどんなに優秀な人でもこの英文は書けないだろうと感じました。

 今回、義経伝説の調査が進まない理由の一つの例として末松の書籍を取り上げました。歴史の研究とはまさにこんなことの積み重ねなのでしょうね。二つの史料の間で齟齬が生じる。年表を作っていると今回のようなおかしなことに気づきます。小谷部全一郎の年表を作っていてこのことに気づきました。

 末松の本を読み進めていくうちに、この本って「国策」で発表したのでは? という疑念がわきました。日本政府ではなく一個人として刊行する。義経など関係のないイギリスであえてこの本が刊行されたのはなぜか。その理由は、「国策」。そう感じた理由は、書き方が外国の読者を意識しており、ナポレオンやネルソンが頻繁に登場することです。どうも、北海道や周辺諸島の領有権を諸外国に対して主張することを目的として書かれた文章なのではないかと感じました。

小谷部全一郎はもっと面白い

 現在、小谷部の『ジャパニーズ ・ロビンソン・クルーソー』(‘A Japanese Robinson Crusoe’ , Oyabe, Jenichiro, Pilgrims Press, 1898)を読んでいるところです。最初は、期待していなかったのですが、内容は結構おもしろいと感じています。まるで、ジュール・ヴェルヌの小説を原文で読んでいるようです。(「なんでも保管庫2」の検索窓で「ジュール・ヴェルヌ」を検索すると、本サイトをより楽しめると思います。)

 小谷部全一郎を語るのであれば、彼の著書『ジャパニーズ ・ロビンソン・クルーソー』は必読のような気がします。言い換えれば、この本も読まずに小谷部全一郎の批判をすべきではない、ということです。

 小谷部全一郎については以前から調べていたので、彼の系譜は知っていましたが、この書籍で理解が深まりました。

 義経関連で、小谷部を擁護するか、けちょんけちょんに非難するかは今後の調査結果次第です。

なかなか書けない次の記事だけど

 そのうち、「義経、北行伝説の謎」をアップできるとよいのですが・・・。作業が全く進みません(涙)。すでに40000字以上書きためているのですが、まだ、最初の段階に過ぎません。英語の文献があればそれを読み、日本語の文献があれば、その出典を確認し、出典を読む。普通の人はやらない作業です。おちゃらけサイトの5分で書ける記事とは違う情報を発信したいと思います。

 こんな状況なので、とりあえず版としてこの記事をアップしました。調べるのに時間がかかるため、とりあえず版をアップするという、うちのサイトのいつもの手法です(www)。

 すでにお気づきのように、管理人の視点は、「出典は何か? そこにはどう書かれているのか」ということです。全て原典を確認する。他人の書いた文章は出典が示されていなければ最初から信用しない。著者の感想文など読みたくもない! 出典も示さない記事は最初から無視する。

 義経がどこで死のうが管理人には全く関心がありません。北海道に渡る途中で水死したかも知れません。大陸に渡る途中で船が沈没したかも知れません。そんなことは管理人にはどうでもよいことです。しかし、義経の北行伝説が本当かもしれないと思えても、その可能性はどのくらいあるのかが、今の歴史書では全く分からない。全否定するからです。それこそが問題だと思います。

 義経が衣川で死んだ? 当事者の立ち位置で考えると、よほどの脳天気な人間でなければ、そんなことが起きるはずはありません。身の危険を察知した義経はとっくに平泉から離れているはずです。普通に考えて、義経が平泉に留まる筈がない! そもそも論を書けば、義経は山に逃げ込めば誰も見つけることはできない。山に逃げた人が見つかるのは映画の世界だけ。現実世界では、山で遭難した人を見つけるのは至難の業。岩手の山は険しい。泰衡が義経を殺害しようとするのなら、毒殺でしょうね。自分の領内にいる義経を攻め滅ぼすという手段はとらない。

 義経生存説を否定する人たちの書き方には特徴があります。それは、ほとんど自分の頭で考えていない文章を書くということです。この視点で彼らの書く文章を読めばその意味が分かるはずです。

 『吾妻鏡』に義経の死の部分が「云々」と記載されている意味をもっと真剣に考えるべきではないかと思います。

義経は衣川で死んでいない!

 義経は衣川で死んでいない。その根拠となるのが、義経の逃避行のルートが一本のラインで示されること。こんなことは世界的に見てあり得ないことでしょう。伝説・伝承がたくさんあったとしても、伝承相互には関連性がありません。ところが、義経の北行伝説だけがそのルートを辿ることができるという不思議。

 判官信仰もこの謎の前には全く説明になっていません。

 義経が衣川で死んだ、ということに疑問を感じるのはごく普通のことです。普通に考えて、義経が衣川で死んだはずがないのです。義経が非業の最期を遂げたからそれを哀れんで伝説が生まれた・・・などというもっともらしい説は、議論が逆さまです。誰かが勝手につくった根拠のないお話です。そんな説しか作れない歴史学者を管理人は哀れみます。

 当時の人も、藤原泰衡に攻められて衣川で義経が自刃したなど誰も信じなかった。少なくとも、それはないよね、という感覚だったのでしょう。泰衡が自国の領内にいる “”篭の中の鳥” 状態の義経を多数の軍勢を結集し攻撃して殺してしまう。誰が考えても辻褄が合いません。そんな馬鹿なことをするはずがないと、当時の人は考えたのでしょう。篭の鳥を殺すのは針一本で済みます。軍勢は全く必要ないのです。

 義経北行伝説は、判官贔屓で生まれたわけではなく、鎌倉幕府の主張があり得ないと感じた当時の人たちが残した史実のように感じます。

 ところが、義経に関しての史料がとても数が少ないことに縛られる史料第一主義の歴史家は、その出典の範囲内で物語を組み立てようとします。当時の人の考えなどお構いなしです。出典が少ないのでなりふり構わず物語を組み立てます。吾妻鏡の「云々」も見なかったことにします。平泉の文化が北海道との交易により支えられていたという事実も歴史家は明かしません。とてもズルい。

 歴史的根拠は、義経は、事前に平泉を後にした、ということを示しています。  

脚注:

「云々」現代語訳に付いての記述部分は、素人の管理人の訳ではありません。「吾妻鏡」を現代語に翻訳するサイトの訳に依っています。