明治時代にロンドンで「義経=チンギス・ハン」説を英語で執筆して出版した末松謙澄の論文には何が書かれているのか

はじめに

 今日は、ちょっと変わった視点で歴史の記事を書きたいと思います。

 それは、明治12年(1879年)、「義経=チンギス・ハン」説という荒唐無稽な話を英文で執筆してロンドンで出版した人の話です。

 その人物の名は、「末松 謙澄(すえまつ けんちょう)」。

 管理人の関心は、末松が出版した論文 ‘The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsuné’ にはどんなことが書かれているのだろう?、ということです。

 不思議なことに、この本に何が書かれているかのは、ネット上に情報がありません。あるのは、明治18年(1885年)内田彌八がこの本を日本語に翻訳して『義経再興記』というタイトルで出版したという情報くらいです。さらに不思議なことに、『義経再興記』の表紙には末松の名前が書かれていません。つまり、『義経再興記』は、末松の論文を翻訳して出版したという体裁にはなっていないのです。

 『義経再興記』は、国会図書館のデジタルアーカイブで閲覧可能です。関心のある方はご覧ください。(現代日本人がこれを読むのはとても難しい、という昔の本です)

 今日は、『義経再興記』ではなく、その原本とされる末松の論文そのものを読む、という内容です。

 このように、本来あるべき情報がネット上で見つからないということは、ステレオタイプの情報が蔓延していることを示す典型的な兆候と言えます。それは、末松の論文を誰も読んでいない、そして、内田彌八の『義経再興記』を誰も読んでいない! 少なくとも現在情報を発信している人たちは! そんな疑念がわきます。

末松の論文とは

 末松が執筆して出版した論文 ‘The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsuné’ とはどんなものなのでしょうか。

 これは、全部で147ページ、3万9千字あまりの論文です。

 その中身を見る前に論文の体裁を見ていきましょう。論文は、パート1からパート6、最後に結論、という構成になっています。

 最初にざっと読んだ限り、論文の体裁が整っていると感じました。書かれている文字は、イギリス英語です。(スペルチェックにはイギリス英語を選択する必要がありますwww。こんなこと初めてなのでワクワクします!)

 3万9千字のイギリス英語の論文をまじめに読むほど残りの人生が残っていないので、機械語翻訳することにします。

 今回の記事では、末松の論文に何が書かれているかは書きません。それは、訪問者の方に読んで欲しいと思うからです。要約を書いてしまうと読んだ気になる人たちがたくさんいるので、今回は論文の中身はあえて書かないことにしました。

 その代わり、機械語翻訳結果をダウンロードできるようにします。末松の論文全文をDeepLで日本語に翻訳した結果をダウンロードできます。分かる範囲で機械翻訳結果を修正しています。

この論文は本当に末松が書いたものなのか?

 この英文をざっと読んでいたときに感じたのは、とても日本人が書いた文章ではない、ということでした。文章は頭の中の考えを映し出す鏡。書かれたのは明治12年です。当時の日本人がこのようなお行儀のよい論文を書けたとはとても考えられません。まるで、現代の人が書いたような文章構成です。しかし、これを末松が書いたのです。それは間違いありません。

 管理人は、末松の論文のような洗練された英文を書くことはできません。ちょっとレベルが違うと感じました。

 論文自体の内容には重複部分が多いという印象を受けます。しかし、その表現方法は同じではありません。これだけの英文を書ける末松に興味が沸きました。

末松謙澄とは

 俄然、末松謙澄という人物に興味が沸きました。どこで英語を勉強したのか、この本を執筆したのはいつか、という疑問です。それを調べるには、彼の経歴から。

 Wikipediaの「末松謙澄」をまとめると以下のようになります。

 「末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日(1855年9月30日) – 大正9年(1920年)10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。
豊前国前田村(福岡県行橋市)の大庄屋の4男として生まれる。

慶応元年(1865年)(10歳)に地元の碩学村上仏山の私塾水哉園で漢学と国学を学ぶ。
明治4年(1871年)(16歳)に上京して佐々木高行の元へ書生として住み込み、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候となっていた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学の教授を引き受けて互いに勉強する日々を送る。
明治5年(1872年)(17歳)に東京師範学校(筑波大学の前身)へ入学。しかし学校生活に不満を感じて同年に中退、高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込む。
明治7年(1874年)(18歳)に同社の記者となり笹波萍二のペンネームで社説を執筆。
明治8年(1875年)(19歳)に社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として政府入り。同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉へ赴く黒田清隆の随行および日朝修好条規の起草に参加。
明治9年(1876年)(21歳)に工部省権少丞
明治10年(1877年)(22歳)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕となる。同年太政官権少書記官に転じた。
明治11年(1878年)(23歳)にイギリス留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習となって2月10日に渡欧、4月1日にロンドンへ到着、外交官として赴任することになった。
明治12年(1879年)(24歳)に「義経=チンギス・カン説」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表し、その後、日本で翻訳出版され、大ブームを起こす。
明治13年(1880年)イギリス滞在中はしばらく公使館に勤務していたが、歴史の勉強に集中するため12月に依願免官。
明治14年(1881年)(26歳)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した。
明治15年(1882年)(27歳)に最初の「源氏物語」の英訳を書いたり、イギリス詩人の詩を多数邦訳したりしている。明治17年(1884年)(29歳)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得してケンブリッジ大学を卒業した。
明治19年(1886年)に日本へ帰国」(Wikipediaより要約)

 この系譜を見ると、論文を書いたのは24歳の時。その後、ケンブリッジ大学に入学し、無事卒業します。

 ここで、疑念が再燃します。イギリス留学で渡英した翌年にこんな論文が書けるものか、と。

 管理人が気づいたのは、この論文は、英語圏の読者を意識した書き方になっていること。つまり、英語表記の点だけではなく、論文の読み手を意識した書き方になっているのです。内容ではなく書き方の問題です。

 通常、(英語が母国語ではない)外国人が書くこのタイプの文章は陳腐化してうまくいかないのですが、末松の記述はうまいと感じます。本当に明治の日本人が書いた英文なの?、と感じてしまいます。

 管理人は、明治12年(1879年)の執筆時点で24歳の末松が、この英文を書いたとは信じられません。末松が書いた日本語の論文の翻訳を英国人に依頼したのではないか?

 もし、そうであったとしても、末松の経歴に何ら影響を及ぼすものではありません。むしろ、日本人のいい加減な英語よりも英国人が書いた正しい英語で書かれた書物が出版されることの方が重要でしょう。

 スペルチェックをしていて気づいたのは、この論文にはほとんど誤字がないということです。誤字があるのは日本語をローマ字書きにした部分に集中しています。このことからも、この英文は末松が書いたものではないと推測できます・・・、と思ったのですが、読み進めると、末松が書いたのは間違いないと考えるようになりました。引用している文献の読み込みがすごいと感じたのが理由です。

翻訳論文の原稿の処理について

 論文はいくつかのサイトからダウンロード可能ですが、問題となるのは、そのファイルの文字認識です。論文はスキャンしたものなので、そのままでは文字認識できません。OCRで文字認識する作業が必要です。

 今回のケースでは、元画像の文字列が隠れている箇所があるなど、OCR処理が難しい部分がありました。このため、見えない文字列を推測するという地味な作業が必要となります。さらに、OCRの文字の誤認識が頻繁に発生するというトラブルもあります。それは、単なる文字列の認識不能ではなく、OCRソフトが勝手に推測して、ありもしない文字列を生成するという問題。この解決には、全ての文字列を確認する作業が必要になります。今回、その量が膨大で、147ページもあります。この処理にどれだけ時間がかかるか分かりますか?

 この作業のおかげで、論文に全て目を通すことができましたwww。

末松の論文を読んでみようと思ったきっかけ

 実は、この記事を書き始めたとき、末松の論文は、小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』と同じ論調なのかと推測していました。ところが、どうも違うと感じます。末松は英語圏読者に向けた文章を書いていますし、その書き方もとても注意深いものです。

 「義経=チンギス・ハン」説は研究者の間では相手にされません。その理由は、それを証明する方法がないからです。

 Wikipediaの「チンギス・ハン」の項には、たくさんの情報が掲載されています。広大なモンゴル帝国。多言語で書かれた史料、『集史』『聖武親征録』『元史』などの解釈に四苦八苦しているようです。

 しかし、その大半は、いつ書かれたのか、誰が書いたのかも分からない『元朝秘史』に大きく依存しています。本来であれば、そんなものは史料にならないはずです。他の文献でも同様の記述や、それ以外の踏み込んだ記述がある、など、問題外の指摘でしょう。そもそも『元朝秘史』が偽書だとしたら、それを信じた人たちが、様々な逸話をねつ造した可能性があるからです。

 中国の皇帝が指示した歴史書の編纂の仕方はとても厳密で、比類のないものと言えます。しかし、「元朝」に関してはどうなのでしょうか。

 文字を持っていなかったモンゴル族の歴史を口伝で伝えたものを後世、記録した。それって、個人の意見でしょうか。それとも、そのようなことが書かれている史料が存在するのでしょうか。そして、その史料に書かれていることは正しいと判断する根拠は何なのでしょうか。

 中国語で書かれた文献は、書かれた当時の「中国領土」あたりのことしか視野にありません。それは当たり前のことです。中国の歴史家が皇帝の指示で歴代王朝を語り継ぐ歴史書を編纂する場合、それは、「中国」のことしか視野に入っておらず、広大なモンゴル帝国の歴史とは全く別物となります。末松はこのことも指摘しています。

 日本では、国内の古文書が偽書であると糾弾する人たちがいますが、『元朝秘史』が偽書だと指摘する人はいません。もし、『元朝秘史』が偽書だとすると、チンギス・ハンのことが何も分からなくなるからです。クロスチェックに使っていた周辺文献の情報もこの偽書から派生したと判断され、価値を失います。

 結局、『元朝秘史』の自出を説明する作業が最も求められることでしょう。そもそもこの書物のタイトル自体が怪しい。正史であればこんなイカレたタイトルは付けない。後世に書かれたものでもこのタイトルはおかしい、と感じます。もし、『鎌倉幕府秘史』という書物が見つかったとしたら、そんなもの歴史学者は最初から相手にしないはずです。

 このような状況で思い出すのは、過去記事で書いたプランタールの文献ねつ造のこと。

 『シオン修道会の話をデッチ上げたピエール・プランタールという人物がいます。彼は、『秘密文書』という名前の自作の偽造書物をつくり、パリの国立図書館に贈呈し、その50年後に、自らそれを『発見』したと称して、この本の信憑性を高めようとしましたが、1993年、自分で偽造したものであると告白しました。』(ヴォイニッチ手稿の謎に迫る

 管理人は、分からないのなら「信頼できる史料がないので一切分かりません」でよいのではないかと思います。自分の都合のよいことだけを歴史学の基準に当てはめて自らの正当性を主張し、都合の悪い部分は、その基準を無視した引用をしてストーリーを組み立てる。明らかにダブルスタンダードです。

 末松は、(執筆当時判明している)史料から「義経=チンギス・ハン」説を主張することはできないとしています。そして、末松が採用した方法が「音」。発音を根拠に類似性を主張する方法です。

 しかし、この方法論は、取り扱いがとても難しく、言語学の専門家でもない末松が扱うには手に余る方法論だと言えます。末松のやり方は、発音が似ている、ということを主張しているだけで「こじつけ」のようにとられてしまうでしょう。

 異言語間でも同じ発音で同じ意味をなす、あるいは、反対の意味になるという事例もたくさんあります。末松の研究方法では、’こじつけ’ という疑念を払拭できない。それは、事例の数を増やしても同じこと。難しい研究方法と言えます。素人の手に負える研究手法ではありません。

 末松が伊藤博文の意向で、対外政策の一環としてこの論文を書かせたという記述も見かけますが、それはその筆者の感想文です。なんの出典も示されていません。

 この論文は、末松がケンブリッジ大学の卒論として書いたという偽情報が蔓延していますが、これは本稿で指摘したようにデタラメの情報です。出版は、ケンブリッジ大学の入学前です。

 所詮、この程度だということです。「義経=チンギス・ハン」説など、まともな研究者は相手にしていないので、研究者の批判もいい加減。それを真に受けているネット民がたくさんいるのが悲しい。

 現代世界は「義経=チンギス・ハン説」ではなく、遺伝子解析の結果は「チンギス・ハン=地球人の子孫説」に向かっています。アジアの国民の遺伝子解析の結果、ある時期の特定の人物の遺伝子を現代に生きる人たちは持っている、という研究結果が明らかにされました。その人物とは、チンギス・ハンが想定されています。

 そして、チンギス・ハンの死因。それは、中国語Wikipediaに書かれています。ここではそんな危ないこと書けません。関心のある方は過去記事「義経関連でチンギス・カンを調べていたら中国語版Wikipediaに18禁の死因が書かれていた!」をご覧下さい。 

末松の論文は難しくて読めない:読んだという人に聞いてみたいこと

 末松の論文を読んでいて困るのが、参照している文献の正確な名称が記載されていないこと。さらに、固有名詞の意味が分からないこと。

 末松が引用している欧米の冒険家・歴史家が執筆した、あるいは編集した書籍はとてもボリュームのあるもので、1冊が700ページ以上あり、それが何巻もある。しかも、とても小さなフォントで文字がぎっしり。末松が引用している部分を何とか確認できたのですが、末松は、こんな分厚い本を読んだのかと改めて感心しました。

 また、固有名詞の意味が分からないのは、当時と現代とでは英語表記に揺れがあるからです。特に、モンゴルや中国についての固有名詞の表記方法に対する揺れは大きく、現代の辞書ではヒットしません。固有名詞なので、これが分からないと何について書かれているのかが分からない。

論文には、”Choau Yih” という人物が三度登場しますが、これが誰なのか分からない。いろいろ調べてやっと分かりました。 

それは趙翼(ちょうよく)です。現代の英語では、彼の名前は、趙翼(Zhao Yi)と表記します。彼の書籍として引用されているのが、“the twenty two histories“。趙翼であることが分かれば、これが『二十二史箚記』(にじゅうにしさっき)であることが分かります。

 また、テムジン(後のチンギス・ハン)の父親はイェスゲイ(也速該)と現代日本語では表記し、現代英語では “Yesugei” と表記します。これに対し末松は、”Yezokai” と表記しています。

 さらに、論文に出てくる “SSANANG SETZEN” という人物。調べても分かりません。前後の文からやっと判明したのが「サガン・セチェン」。現代英語では “Saghang Sechen” と表記します。

 末松が “SSANANG SETZEN” という単語を用いているのは、それが書かれている書籍”History of the Mongols from the 9th to the 19th century” を引用しているからです。

 さらに難解なのが以下の文章です。赤線の部分を翻訳できません。この日本語訳を誰か教えてください。赤線の部分は何度か出てくるので、誤植ではありません。

 ”Man-Hung”, “Mon-tah-pih-luh” って何?

 現在のネット情報(アーカイブ、電子辞書など)を駆使しても翻訳できない。たぶん、英文表記の揺れが原因だと思うのですが、管理人には翻訳できません。

 ここで思うことは、「末松の論文を批判する人って、論文を読んで批判しているのか」という基本的な疑問です。末松論文を批判する人は、この部分をどう翻訳したのでしょうか。

 末松は、引用した英文を正しく使っています。末松が間違えているわけではありません。当時のイギリスの東洋研究の人たちが使っていた単語がこのような表記だったと言うことです。そして、現代では使われていない表記方法です。

 末松論文を「読んだ」と自称する人たちは、これを「翻訳できた」のでしょうか? 

文中に出てくる’Mr.Tomita’ って誰? 

 この論文の重要な情報を提供するキーパーソンが ‘Mr.Tomita’ という人物。在英日本大使館の大使代理という肩書きで登場し、ウラジオストック貿易事務官瀬脇壽人(手塚律蔵)の手記『浦潮港(ウラジオストク)日記』とつながります。末松は、その記載内容をベースに、義経=チンギス・ハン説を紹介していきますが、引用する他の多くの書籍は批判的に扱っているのに対し、この「日記」は無条件に信頼しているという印象を受けます。同じ外交官が書いた「日記」なので、少なくとも筆者にねつ造の意図はなく、もし誤りがあるとしても、それは伝聞の誤りだろう、という姿勢なのだろうと感じました。

 ところで、’Mr.Tomita’ って誰なのでしょうか。調べてみると、この時期にイギリスにいた「富田鉄之助」だと分かりました。管理人の中では、富田は、勝海舟の葬儀で彼の棺を担いだ四人のうちの一人、さらに、勝の息子小漉が米国留学する際のお供で渡米した仙台藩士というイメージしかなかったのですが、ここで登場するとは意外でした。

 論文の中で瀬脇が亡くなったことが書かれています。瀬脇がウラジオストックから帰国する途中の船中で客死したのは、明治11年(1878年)11月29日のこと。そして、末松の論文がロンドンで出版されたのは、翌年の1879年です。何ともスピード感を感じます。そして、それは末松の英語力の高さを感じさせることになります。

 末松は、論文に引用している文献のいくつかを大英博物館図書室で見つけたと書いています。そして驚くのが、論文に引用されている文献本体のボリュームです。こんな分厚い本を本当に読んだの? 、と感じさせるボリューム(700ページ以上)なのです。でも、彼はそれを読んだと言うことが論文の中身を精査すると分かります。現代の大学生でもこのような論文は書けないのではないかと思います。

末松の問題意識

 末松がチンギス・ハンの謎として捉えているのは、チンギス・ハンが草原から生まれ、一大帝国を築き上げたという点です。過去に広大な帝国をつくった先人たちには、それ以前の様々な蓄積があった。戦術にしろ、帝国の形成、運営方法など先人の知識や経験をベースにしている。ところが、モンゴル帝国だけが歴史上、突如草原から生まれた。その理由は何か。これが末松の問題意識です。

 また、チンギス・ハンがケレイト部族を破ったのは1203年とし、この時、チンギス・ハンは40歳だったという説を支持しています。そして、この年以降のチンギス・ハンの歴史的記述は様々な書物で一致が見られるのに、それ以前についての記述は一致が見られず、1203年以前の記述は信頼できないとしています。偽書である可能性が高いと。

 この指摘に対し、まともに反論できる歴史家はいないと思います。重箱の隅をつつくことで批判した気になっているのでしょうか。何しろ、本丸の『元朝秘史』を攻撃されると防ぎようがない。そこで、周辺から殲滅していく作戦を採る。

末松論文の出典とは

 末松の論文には、たくさんの書物が引用され、それに基づき持論を展開しています。特徴的なのは、日本の書籍のみならず、外国の書籍からも多く引用していることです。そのいくつかは大英博物館図書館で見つけたと書かれています。

 末松が引用している書物は、(文献リストはないので文中から拾うと)以下のようになっています。

・『日本外史』、『日本政記』 頼山陽(らい さんよう)。1832年
①『東蝦夷夜話』大内余菴
②『義経蝦夷勲功記』(1853年刊)永楽舎一水 著
③『源平盛衰記』
 (①~③を大英博物館で見つけた)
『浦潮港(ウラジオストック)日記』、ウラジオストック貿易事務官 瀬脇壽人(手塚律蔵)
『二十二史箚記』 趙翼(ちょうよく) Zhao Yi Choau Yih

フランスの東洋学者ペティ・ド・ラ・クロワ(Petis de la Croix)
末松が論文の中で27回も引用しているのが下の書籍です。

The Mikado’s Empire‘, William Elliot Griffis, 1877

‘History of the Mongols’, Sir Henry Hoyle Howorth, Jan. 1876、(ヘンリー・ハワース『モンゴルの歴史』) 
 790ページくらいある本の中のP.49から長文を引用している。これ、本当に読んだの? というレベルの厚い本です。さらにこの本は、Part I~Part III まであり、合計で2600ページもあります。

‘History of the Tartar Genealogy’ Abu-al-Ghazi Khan, (アブ・アル・ガジ 、『タタール人の系譜』)

‘New general collection of Voyages and Travels’ VOL.IV, T. Ashley,1747

‘A general collection of Voyages and Travels’, compiler of J. Pinkerton, 1811

 これらの英語の文献はとてつもなく分厚いもので、末松の英語力が優れていたことが分かります。

・湯浅常山の『常山紀談』

・伴信友、『中外経緯伝』

内田彌八が末松の論文を日本語に翻訳して『義経再興記』を出版した、は本当か?

 末松の論文を読んでみて感じるのは、この本を日本語に翻訳するのは、明治時代ではとても難しいということです。

 現代であれば、インターネットを駆使し、末松が引用している文献を探すことも可能です。しかし、これが一筋縄ではいかないのです。舞台はモンゴル帝国の領域です。そこで使われている言語はとても多彩です。さらに、彼らの言語、固有名詞をどのように表記するのかは、時代によって変化します。それは、英語でも日本語でも同じです。

 末松が論文で使っている固有名詞は、現在の英語では使われていないケースが頻発します。末松が間違っているわけではありません。末松が引用する文献には、確かにその単語が使われています。しかし、現代では全く使われていないらしく、検索エンジンでヒットしません。

 それほど固有名詞は難しい。固有名詞なので、翻訳できない。さらに、モンゴルの固有名詞の表記方法は時代による振れ幅が大きいようです。たとえば、日本語の「チンギス・ハン」も「ジンギス・ハン」、「ジンギスカン」などたくさんの表記方法がありますよね。

 ということで、現在のネット社会でさえ固有名詞の確認に四苦八苦するのに、まともな辞書がない明治時代に末松の論文を翻訳するのはとても難しいと感じました。相手は多言語領域にまたがる巨大国家モンゴル帝国なので、固有名詞を英語で書かれても翻訳できないのです。

 内田の『義経再興記』を読む気力がないので比較できませんが、内田が書いたものは翻訳ではないのでは、と感じます。末松の論文は、ナポレオンやネルソンが登場するなど英語圏の読者向けに書かれており、そんな書物の翻訳が日本で『義経再興記』として出版されるとは考えられません。そもそも、内田の本には、末松の名前が書かれていない。

 もしそうであるなら、「ジンギス・ハン=義経」説を批判する人たちは大恥をかくことになります。かれらのほぼ全員が「末松の論文を内田が翻訳して『義経再興記』を書いた」、と主張しているからです。結局、誰も末松の論文を読んでいないのです。

 典型的なステレオタイプの人たちが書く批評は、なぜか同じ臭いがします。

「あっ、この人、原典を読んでいないな」、と感じます。独特の臭いのする文章になっています。

末松論文の引用文献とは

末松が引用する『東蝦夷夜話』の著者は大内余菴、ということはネットで調べればすぐ分かります。では、大内余菴って誰? これがなかなか見つからない。末松は吉田藩の医者と書いているのでそれをヒントに探します。

 大内余菴の別名は「大内桐斎」。本姓は多々良。三河(愛知県)吉田藩主の江戸詰めの侍医でした。藩命により幕府のお雇い医師となり、安政3年(1856)から3年間、東蝦夷地に勤務。この時の見聞録として『東蝦夷夜話』(1861)が書かれました。末松はこの本を大英博物館図書館で見つけ、そこに書かれている内容が脚色の入らない正確なものだと判断したようです。

 この本を閲覧したい方は、国文学研究資料館アーカイブ『東蝦夷夜話』下巻参照。公開サイトでは、103/121 から「亡き人を再おもひださするとていたく嫌ふことかの地・・・朴直の質を美称するに足るなり」あたりが関連部分になります。

義経=チンギス・ハン説は北方領土問題を考えるきっかけになる

 義経が蝦夷に渡ったという伝承を追っていくと、樺太も千島列島も日本の固有の領土なのでは、という疑問が沸きます。江戸時代以降の条約を無視してロシアが一方的に占領しているわけですから、条約締結前の状況に戻って国境の画定が必要なのではと感じます。その場合の国境は江戸時代にさかのぼって樺太も千島列島も日本の固有の領土ということです。

 親日派のプーチンさんが日本のために与えてくれた今のチャンスを逃してはなりません。北方領土4島返還ではなく、樺太と千島列島の全ての返還を交渉のスタートラインにすべきです。過去の条約は破棄されているのですから、それは当たり前のことと感じます。

末松論文を読んだ上で書籍を書いているのかどうかはすぐに分かる  

 「義経=ジンギスカン」説のおおもとになっているのが末松の論文です。「義経=ジンギスカン」説を批判したい人たちが、その中身を少しだけ書いていますが、管理人には、「それって何ページに書いてあるの?」、という感じです。

 たとえば、森村宗冬氏の『義経伝説と日本人』という書籍では、次のような一節があります。

「『義経再興記』によれば、東京大学校の書生の中に義経=成吉思汗説を主張する者があり、新聞「東京タイムズ」の発行者であるアメリカ人エチフオスなる人物が大いに関心を持ったが、十分な証拠をあげることが出来ず、追跡を途中で断念したという話が見えている。」(同書p.158)と書かれています。

この記述に該当するのが、論文の以下の部分です。

who fled thence, at an epoch just before Genghis Khan began to flourish was made among the students of Tokio University in Japan, warmly supported by Mr. E. House, an American writer, and now editor of the Tokio Times,‘ (論文P.2)

 この Mr. E. House とは、Edward Howard House氏のことです。ネットで調べれば彼が誰かはすぐに分かります。論文には「アメリカ人エチフオス」なる人物は登場しません。論文を読んでいれば、このような書き方はしないように感じます。最低でも、論文にはこう書いてある、と書くのが普通でしょう。

 もしかしたら、「ペティ・ド・ラ・クロワ(Petis de la Croix)」のことかも、と思ったのですが、かれはアメリカ人ではありません。たぶん、この部分は『義経再興記』の誤訳なのでしょう。

 管理人でさえ簡単に気づくこの間違いに、森村氏は気づかなかったのでしょうか。

 また、『義経再興記』を読んで、末松論文を理解したと思うのは間違いです。彼が引用する外国語文献の中身も知らずに、字面だけ翻訳しようとしてもそれは無理というもの。そもそも、英語で書かれている固有名詞が理解できないのです。

 結局、末松論文の凄さが分かるのは、ネットが発達した現代なのかも知れません。末松論文を矮小化して引用するのは簡単ですが、そんな文章は末松論文のどこに書かれているの?、と管理人にはすぐに分かります。論文を読みもしないで批評すると大恥をかきます。

 森村氏は、末松論文の核となる「音・発音」の部分を簡単に「それはこじつけ」的に批判しているのですが、末松は、そのような批判があることを百も承知で書いています。

 管理人には、この部分の英文解釈が難しく、はっきり言ってわかりません。これを熟読すべきか迷うのですが、モンゴル史の基礎がないと難しそうです。

末松が引用するGriffisの ‘The Mikado’s Empire‘ は原文のどの部分か

 末松は、義経についての多くの部分を William Elliot Griffis の著書 ‘The Mikado’s Empire‘ から引用しています。日本人である末松があえて米国人の書いた書籍を引用する。そこにこそ末松の意図が隠されているように感じます。

 末松の論文の中で、実際、Griffis の書籍のどの部分を引用しているのでしょうか。

 調べてみると、たとえば、書籍のP.144 の脚注に以下の記述があります。末松論文(P.54)で義経=チンギス・ハン伝説は中国の書物にあることをGriffisの書籍から引用している部分です。

‘The Mikado’s Empire‘, William Elliot Griffis, P.144, footnote

  ここで出てくる「seppu」という書物は、南朝宋の臨川王劉義慶が編纂した『世説(世説新書?)』のことではないかと思うのですが、確認できません。

 末松は、この書物を読んでいないと正直に告白しています。「seppu」という名の中国語の文献が何なのか分からなかったのではないでしょうか。

I must first of all confess that I have had no opportunity of reading the Seppu (a Chinese collection of historical miscellanea).

末松論文,p.144 注:miscellanea ⇒ miscellanies (Griffis)

義経=チンギス・ハン説の根拠としている日本の文献

 論文のP62から、末松は、日本の文献をベースに中国の文献で義経=チンギス・ハン説があることを述べています。

 この部分をうまく翻訳できないのですが、・・・。

 末松論文p62より抜粋

 最初の友人の Mr. Nanjio とは、1879年からオックスフォードに留学していた南条文雄のことです。困るのが、南条が贈ってくれた書物の名称です。‘Shinshiu Miomokudzu’ とは何か?

 たぶん、『浄土真宗名目図』のことだと思います。書かれたのは天明8年(1788年)なので間違いない・・かも。著者は峻諦、論文では、’Taishiun’ となっているのが気にかかります。

 このあたりを翻訳すると、「明和三年(西暦1766年)五月に日本に輸入された『圖書集成』は、勅命により蒋廷錫(Tsiang-Tien-che)の監督下で編纂された九千九百九十六巻からなる大百科事典である。その中に『輯勘録』30巻があり、その最後の巻の序文に次のように書かれている。私の姓は元(Yuen)であり、清和(Tsing Ho)を祖とする義経(Yee-king)の子孫である。姓は元(Yuen)、故に我が王朝を清(Tsing)と名付ける。上記の一節は、伊藤才蔵の著作にある。」という重要な記述になっています。

末松論文p63, P62からの続きの部分

 論文の『圖書集成』とは、『古今圖書集成』のことで、Wikipediaには次のように書かれています。

「清の康熙帝が陳夢雷(1651年 – 1741年)らに命じて編纂を開始した。その後さらに雍正帝の命により、明の『永楽大典』に倣って蒋廷錫(1669年 – 1723年)等が増補し、1725年(雍正3年)12月に完成した。」

Wikipedia, 「古今図書集成」

 ところで、『浄土真宗名目図』は国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。読んでみたのですが、この本は仏教を学ぶ学生のノートのような感じで、浄土真宗の細かなルール(教え・戒律)や他の宗派についてなどが書かれていて、義経に関するような記述はないのでは、と思って三度確認したら、見つけました。末松論文と同じことが書かれています。

 ただ、この本の中で仏教とは異質な「震且世記 十八史畧」という項目の最後の部分に書かれているのが奇妙です。

『浄土真宗名目図』は国会図書館デジタルコレクション、 コマ番号 95/97

 末松の論調は、『浄土真宗名目図』に書かれている。記述の出典は、伊藤才蔵で、伊藤は信頼できる儒学者。長兄の源蔵に次いで名声の高い才蔵の発言に、正当な評価を与えないのは無理がある、というものです。

 彼の主張がおかしいことは、誰もが気づきます。出典を辿れないにもかかわらず、人物評価により書かれているのは正しいという主張はむちゃくちゃです。

 『圖書集成』の中に『輯勘録』30巻があり、その最後の巻の序文に書かれているとされる怪しい記述ですが、そんなものは『圖書集成』には書かれていないということは江戸時代に既に確認されていたことです。

 医師・蘭学者である桂川中良が随筆集『桂林漫録』(享和3年(1803))の中で、『古今圖書集成』に『輯勘録』なるものは存在せず、当然、その序文も存在しない。『古今圖書集成』の序文にはそのようなことは書かれていない、ということを実際に自分で調べた結果として記載しています。

 ということで、末松の時代より80年も前にこの記述はねつ造されたものだと証明されているほら話のようです。

 なぁーんだ、残念! 本当なら面白かったのに。

 論文に書いていないのですが、ここを少し掘り下げましょう。

 桂川が読んだのは、森長見(もり-ながみ:1742-1794)という江戸時代中期の国学者が書いた本。森は、義経清朝開祖説を「或る儒者(儒学者)が書き残した書物で知ったと書いています。そのある儒学者とは、論文にある「伊藤才蔵」です。しかし、すべての研究者はここで作業は終わっています。「伊藤才蔵」がこの説について書いた書物が見つかっていないからです。伊藤才蔵(1694―1778)は、紀伊藩に仕えた著名な儒学者ですが、彼の書物で確認できないのですから話になりません。末松の推論方法に誤りがあったと言うことです。

 ところで、Wikipediaをみると、この説が書かれている最も古いものは、明和6年(1769)の戸部良煕『韓川筆話』であるとされています。論文では、「明和3年(1766)に日本に輸入された『圖書集成』」となっているので、時期的にもっともらしい。幕府が輸入した書籍を閲覧できる人物は限られています。輸入されたばかりの1万巻の『古今圖書集成』を閲覧するなど、幕府の担当役職にいる人物でなければ難しいでしょう。

 火付け役になったのが、天明3 (1783) 森長見の『国学忘貝』(こくがくわすれがい)。森は『韓川筆話』を引用していますが、彼自身はこの話を信じていたわけではないようです。

 論文を読み進めていくと、Part5、Part6の部分は発音を元にしたこじつけと考えられます。管理人の印象としては、Part4以前と比べ書き方が違っているように感じます。あきらかなこじつけの文面が多発します。

 そもそも論を書くのならば、末松が引用している外国人が書いた多くの文献は1800年代初頭以降に書かれたものです。チンギス・ハンの経歴自体が怪しいのに加え、門外漢の外国人の書籍にある記述を根拠に議論を展開されても何ら説得力がありません。

 当時の外国人冒険家の記述が重要となるのは、当時の未開な国の風物、文化が記録されている場合であって、13世紀に活躍したチンギス・ハンの記録、すなわち、外国人が出版する時点で600年も前の歴史に関しては、外国人が参照した記録にこそ価値があるのであって(記録が失われている場合が多い)、外国人著者の解釈や作文にはほとんど価値を見いだせません。

 末松の研究手法について評価するのなら、デタラメという評価が適切かと思います。管理人はかなり期待していたのですが、末松のやり方ではぜんぜんダメ。何の立証もしていません。論文の後半部分を読むのがつらくなりました。

義経=チンギス・ハン説を立証する方法はあるのか

 文献に依存する間接的な手法では、その解釈は人により異なるため、立証されたとまで言える方法論は存在しないと思います。

 チンギス・ハンの系図は21代前のボルテ・チノ(碧き狼)まで遡ることができますが、それが書かれているのは明らかに偽書です。文字を持たないモンゴル族がどうやってそれを記録したのかを実証してもらわないと偽書として評価するのが妥当です。そんなことができるわけがありません。もし、できるというのなら、過去の事例をたった一つでよいので示してください。

 もし、21代前まで遡るような卑弥呼の家系図を誰かが示したとしたら、あなたはどう思いますか。卑弥呼でさえよく分からないのに、その祖先まで遡ることなどあり得ない、と考えるのが妥当でしょう。

 その理由は、当時の日本には文字がなかったから。だから、卑弥呼のことでさえ、中国の倭人伝に依っている。その中国の文献にさえ載っていない卑弥呼の祖先のことなど分かるわけがない。

 ジンギス・ハンの場合はどうでしょうか。1203年以前の記述はすべて無視してよいレベルではないかと感じます。ジンギス・ハンが文字のウイグル文字を採用するまで、モンゴルの歴史は口伝ということです。口伝では、チンギス・ハンの系図は21代前まで遡るのは無理です。いや、できると主張したい人は、自分の家系では21代前まで遡れるのか、そして、それを(寺の過去帳ではなく)口伝で遡れる家系とは何なのか、さらに、歴代のお墓は?

 このように考えていくと、チンギス・ハンの系図は21代前まで遡るのは無理なのが分かります。すべてがねつ造されたものと評価するのが妥当でしょう。

 では、義経=チンギス・ハン説を立証する方法はないのか、と言えば、あります。それが遺伝子です。

 源氏の子孫の方とチンギス・ハンの子孫の方の遺伝子を比較し、血縁関係にあるかどうか調べれば、それで終わりです。存在しない史料を探したり、出所も不明な文献の怪しい記述に頼ったりする必要もありません。

 知りたいことが、「チンギス・ハン=源義経」か否かなので、不毛な文献調査など一切不要です。

 ちなみに、2015年、英レイセスター大学のPatricia Balaresque氏が筆頭著者となる遺伝学研究チームが “Y-chromosome descent clusters and male differential reproductive success: young lineage expansions dominate Asian pastoral nomadic populations” という論文をオンライン版「Nature」で発表しています。

 2015年2月7日にTOCANAがこの論文について「チンギス・ハン直系の子孫が世界に1,600万人?史上最強のビッグダディ伝説」という記事で取り上げ、その後、各メディアがTOCANAの記事をさらにまとめたような内容で取り上げています。その断片的な報道を引用しているネット記事もよく見かけます。

 せっかくなので、この論文も翻訳してみます。現代英語の翻訳は末松論文の英語翻訳と比較してとても楽ちんです。

Y染色体ハプログループとは

 この論文を理解するには、「Y染色体ハプログループ」についての基礎知識が必要です。

ハプロタイプ 【英】Haplotype

複数の対立遺伝子で、それぞれについてどちらの親から受け継いだ遺伝子かで分けたときに、片親由来の遺伝子の並びをハプロタイプと呼ぶ。染色体は、両親由来のものが2本1組で構成され、それぞれの遺伝子座の遺伝子(対立遺伝子)の組み合わせにより発現する形質が決まる。この対立遺伝子の組み合わせを遺伝子型と呼び、実際に発現する形質を表現型と呼ぶ。例えば、血液型のA型は、AAもしくはAOの組み合わせ(遺伝子型)があり、A型の表現型を示す。 親から子への遺伝は、染色体を最小単位とするため、ハプロタイプを得ることで、遺伝にかかわるより完全なデータを得ることができる。例えば、ミトコンドリアDNAのハプロタイプ分析は、同一種内の地域集団分化に関する研究手法として用いられ、遺伝的多様性保全のための重要な情報となっている。 

EICネット 一般財団法人環境イノベーション情報機構

論文に出てくる用語の定義

・座位 (locus) :相同染色体上の遺伝子がある場所のこと。種において安定な単位。
・アレル (allele) :相同染色体上の対になっている遺伝子同士。
・ハプロタイプ (haplotype) :アレルの組合せ。
・ディプロタイプ (diplotype) :ハプロタイプの組合せ。
・遺伝型 (genotype) :ある座位のアレルの組合せ。個体において安定な単位。
・相同染色体 homologous chromosomes:同形・同大の染色体(父親由来、母親由来)
・常染色体:父母から受け継ぐ相同染色体のセット 44本 2n=46本 残りの2本が性染色体
・遺伝子座:染色体上の遺伝子の位置 相同染色体では、同じ機能を示す位置にある遺伝子が父母では同じとは限らない。
・対立遺伝子:同じ遺伝子座に位置する複数種類の遺伝子
   ホモ:遺伝子座に同一の対立遺伝子を有する
  ヘテロ::遺伝子座に異なる対立遺伝子を有する
・DNAマーカー:生物のDNA塩基配列上の特定部位に存在する、個体の違いを表す目印のこと。遺伝子多型解析で用いられるのは主にSNP、マイクロサテライト、VNTR、RFLPの4つ。現代では、この論文で使われているSNPとマイクロサテライトが一般的。
・SNP:ゲノム上に300万~1000万箇所あり、判定が容易であるため現在広く使われているマーカー。
・マイクロサテライト:2~4塩基程度の繰り返し配列の繰り返し数が個人間で異なる。多対立遺伝子性である。

論文の内容

論文では、中央アジアの男性461人の新しいY-SNPとマイクロサテライトのデータを含む、アジア127集団の合計5321のY染色体を調査し、さらなる系統の拡大が同定できるかどうかを検討した。
最も頻度の高い8個のマイクロサテライトハプロタイプに基づき、分析から11個のデサントクラスター(DC)を抽出した。このうち、DC4は韓国のみのため除外し、10個のDCで分析。

 分析したDCは、DC1、DC2、DC3、DC5、DC6、DC8、DC10、DC11、DC12、DC14、の10個です。

DCの特徴を地理的に説明した模式的な合成図

 上図で黒丸は位置の起源を、矢印は方向性を示しています。年代は共通祖先(MRCA)に遡った時間(TMRCA)を示しています。10のDCがチンギス・ハンと関係している訳ではないことは図を見れば分かります。チンギス・ハン関連で見るのなら、DC1 が該当します。

 ネットの記事に騙されて、チンギス・ハンの直系子孫が世界に1600万人もいるのかと思ったのですが、論文にはそんなことは一言も書かれていません。

 今後、チンギス・ハンの墓が見つかり、もし、そこに遺骨があるのであれば、それからDNAを採取し、子孫の特定につながるのかもしれません。すると、義経=チンギスハン伝説に幕が下りることになります。

論文原本・和訳のダウンロード

 今回の記事で使った論文原本(Word版、Png原本・OCR読み取り修正版)とDeepL翻訳エンジンによる和訳結果(Word版)を公開します。OCRで読み込み後、読み取りミスのチェックをしていますが、チェック漏れも多いと思います。和訳は、DeepLで翻訳したものをベースに固有名詞の日本語変換を中心にかなり手を入れていますが、論文後半部分はほぼノーチェックです。こんなことが書いてある、程度の翻訳です。

 明治12年に書かれたイギリス英語の論文を読む機会はほとんどないと思うので、自分で読んでみる際の参考になればと思います。

 ダウンロード

 ダウンロードパスワード: Hokanko22

 論文の内容についてちょっとだけコメントすると、・・・。最初は、全く期待していなかったのですが、書かれている内容が興味を引きます。というのは、明治末の東大・京大の邪馬台国論争の論文を読んで、この程度で論文なのかと感じていたのですが、末松の論文の方がはるかに優れています。読者を意識した世界観・引用方法・読者誘導視点、出典明示など、格調高いと感じました。論文の書き方・方法が現代と同じと感じます。

・・・、と感じてこの記事を書き始めたのですが、論文の後半部分は失速しています。竜頭蛇尾の論文という印象です。 

ついでに書きますが、先ほど「なんでも保管庫2」にアップした「無料で使える多言語翻訳ソフト『DeepL』は抜群の翻訳精度|その便利な使い方とは」という記事で、今回の末松の原稿をDeepLで翻訳した場合の不具合を説明しています。 

おわりに

 今回の記事は、この辺で終わりにしたいと思います。あまりアクセスもないようなので、この程度で店じまいします。

 今回の記事を書いていて感じたのは、末松論文と内田彌八の『義経再興記』の関係が、勝海舟と吉川襄の「氷川清話」との関係を思い起こすことです。

 「氷川清話」は吉川襄が書いたもので、勝海舟はそれを自由にやらせておいただけで監修をしたわけでもありません。勝の門人から「氷川清話」には間違いが多いと言われても、勝は放置していたようです。「氷川清話」は酷評されていますが、そもそも、著者(編者?)の吉川襄って誰?の世界です。彼についての経歴を探しても数十字しかありません。まさに、こいつ、誰?の世界です。

 『義経再興記』の著者内田彌八。福澤諭吉が末松から送られてきた論文を読んで、面白いからだれか翻訳してみたらと言われ、名乗りを上げたのが書生の内田でした。大英博物館図書館の書物を閲覧できる末松が書いた英語論文を日本にいる内田が翻訳できるわけもなく、論文の西洋文化の部分は無視して翻訳している偽物の翻訳図書です。内田が『義経再興記』を出版するにあたり末松の名前を書かなかった理由は、翻訳のレベルが低いことを自覚し、末松論文の翻訳であるなど恥ずかしくて書けなかったのだと思います。

 末松が『義経再興記』を読んだとき、自分の論文とは違うあまりのレベルの低さに唖然としたのではないでしょうか。末松の論文は、日本にいる(情報アクセスできる範囲が限定されている)内田が翻訳できるレベルの論文ではないことを、末松は知っていました。末松は、『義経再興記』についての論評は内田を批判することにつながるため、沈黙を守ることになります。

 論文を読んでいて最初に疑問に感じたことは、なんで義経のスペルが “Yoshitsuné” なのだろうということでした。これってアクセント記号でしょ? なんで「ネ」の部分に付いているの? 「ネ」を強調して発音する人などいないと思うのですが。ウェード式表記法で、有気音と無気音の区別に「ʻ」を付けたのかも。確かに、英語では語尾が「子音+e」の場合、eは発音しない場合がほとんどかも。でも、ウェード式なら、[é] ではなく [e’] になるのでは? よく分かりません。

 これは末松が勝手に付けた記号ではなく、当時のアメリカ人もイギリス人も皆、このように表記しています。現在では、アクセント記号を付ける外国人はいないのではないでしょうか。これも表記方法の揺らぎでしょう。

 末松が論文を書いた当時と現代とでは中国語の表記も大きく変わっています。中国では1958年以来「拼音(ピンイン)」が用いられ、現在では広く使われるようになりました。末松論文で使われている漢字の英語表記が何なのか分からない理由は、このピンインが原因なのかも知れません。「ウェード式 ⇒ ピンイン」変換サイトもありますが、今回は使えなかった。

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参考文献

A new general collection of voyages and travels. Consisting of the most esteemed relations, which have been hitherto published in any language; comprehending everything remarkable in its kind, in Europe, Asia, Africa, and America’, Vol. 1, Printed for T. Astley, 1745

Vol.1 のP.525 にはウィリアム・アダムスが書いた日本への航海・冒険談があり興味深い。

Y-chromosome descent clusters and male differential reproductive success: young lineage expansions dominate Asian pastoral nomadic populations‘ Patricia Balaresque, et al., 2015

チンギス・ハン直系の子孫が世界に1,600万人?史上最強のビッグダディ伝説」、TOKANA、2015年2月7日