はじめに
平成30年8月29日、NHK総合で『歴史秘話ヒストリア 武田信玄 「甲陽軍鑑」が語る真実』という番組が放映されました。
番組では、「甲陽軍鑑」が偽書として扱われ、研究者から顧みられない存在であったが、国語学者の酒井憲二氏がこれを覆す論文を発表したことから、現代ではほとんどの研究者が偽書ではないと考えている、という内容を、とても詳しく報じていました。
管理人の視点は、「甲陽軍鑑」がなぜ偽書扱いされたのか、そして、酒井論文の後、研究者たちはそのように評価していた研究方法を恥じて、研究姿勢を変えたのか、と言うことです。
Wikipediaの「甲陽軍鑑」の項を読む限り、自分たちの研究方法には間違いがないという上から目線の記述になっているのが気になります。まさに上から目線の書き方で、虚勢を張っているように感じます。
研究方法が間違っているから歴史研究者たちは「甲陽軍鑑」を偽書として黙殺したわけで、その誤った研究姿勢についての反省は微塵も感じられません。
これでは、同じ過ちを犯し続けるのは火を見るより明らかです。そればかりではなく、彼らの研究成果、そのすべてがとても怪しいものとなります。学術的研究の基本がおろそかにされているのにそれにまったく気づいていない。
今日は、このような視点で、偽書について考えてみたいと思います。
その意味は、なんら反省していない研究者の主張する「偽書説」は妥当なのかと言うことです。
「甲陽軍鑑」はなぜ偽書と考えられたのか
管理人が最初に言いたいことは、明治時代の論文は、論文としての体(たい)をなしていないと言うことです。まるで感想文のような内容のもので、とても論文とは言えない。
そのような論文(?)を引用している研究者もいますが、本気で書いているのかと疑ってしまいます。 「実証的研究?」 ちゃんちゃらおかしい。ネットで見かける歴史好きの人たちは、その意味が分かっているのでしょうか。
他人の書いた文章には難癖をつける癖に、そもそも研究方法が間違っている(明治の)論文を引用するなど、管理人には理解できません。
論文は、疑問に思ったこととを整理し、問題点を抽出。それを解決する方法論を考え、証明する。疑問に思うことはたくさんあっても、それを検証可能な形に問題点として抽出する作業、そして、それを解決するための方法論を考え、証明していくという手順を踏むのが論文だと、管理人は考えます。最も難しいのが問題の定式化。まあ、これに反論する研究者は皆無でしょうが。
別の言い方をすれば、証明できない問題点を研究対象としても、決して論文とはならないのです。だから、明治時代の「論文」は論文と言えないのです。邪馬台国論争についても同じこと。明治の大学の先生方は、論争などしていません。私論を並べているだけです。それを引用することすら憚られるのに、引用している人がいます。そんな引用をするようでは研究者としては失格と管理人は思います。権威主義に陥っている研究者の書籍でよく見かけます。
「甲陽軍鑑」が偽書として扱われ、多くの研究者が「偽書説」を信じたという事実は、歴史学の研究方法にそもそもの誤りがあったのではないかと思います。
「甲陽軍鑑」が偽書として扱われるようになったのは、1891年(明治24年)に田中義成氏が発表した「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)が大きな要因のようです。
この論文の執筆者である田中氏は歴史分野の大家のようで、後世の歴史家はかれの言説にひれ伏すのが習わしのようです。まさにお笑いの世界です。何なんだ、この世界は!
まず、田中氏の論文は、論文として値しない内容であり、もし、査読者がいたとしたら、学会誌には掲載されないと言うことです。管理人が査読者なら100%掲載を認めません。管理人には問題の定式化が行われていない、単なる感想文のように思えるからです。
これについて、「当時の時代背景、社会環境」などを挙げる人がいたとしたら、それはお門違いです。論文の意味を理解していない人の発言でしょう。もし、その主張が通るとしたら、この論文を引用しようとする人は困ったことになります。時代背景で変わるのであれば、その考え方を根拠にして引用などできないからです。
質問サイトで見かける歴史関連の質問に答える回答者の博学には驚きます。しかし、管理人が気になるのは、回答者の人たちって、思考訓練を受けていないのではないかと感じることです。独学でやろうとすると陥る闇です。
歴史研究者がありがたがる田中義成の「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)って、田中氏が何歳の時に書いた論文でしょうか。
田中義成は、安政7年3月15日(1860年4月5日)に生まれ、大正8年(1919年)11月5日に亡くなっています。「甲陽軍鑑考」が発表されたのは1891年(明治24年)なので、田中が31歳くらいの時に書かれた論文ということになります。
田中が東京帝国大学助教授となるのは、論文公表の翌年の1892年のこと。発表当時は助教授ですらない。
ネット上や一部の文献には、『東大教授の田中義成が発表した「甲陽軍鑑考」』という記述がありますが、そういう文章を平気で書く人は信頼できない気がします。
問題になるのは、「東大教授(東京帝国大学教授)」と書くことで、論文の内容に権威付けを図り、読者をミスリードしていることです。まさに、権威的偏見に陥っている人たちですが、自分では全く気づいていません。
他の研究者の論文はいくらでも非難するのに、自分で書く論文は、権威的偏見の虜になっていることに気づいていない。
管理人の視点は、 実証主義的ではない「甲陽軍鑑考」 を田中が何歳の時に書いたのかということでした。その答えは上で書いた通りです。
Wikipediaでも、次のように書かれています。
田中氏の論文は、あたかも実証主義であるかのように誤解している人がいるようです。それを鵜呑みにして、実証主義に基づいて書かれた論文、との誤った解釈が現代まで残っています。
田中が甲陽軍鑑を偽書とした評価手法は実証主義として正しいのか
田中に限らず、明治以降の歴史学者が「甲陽軍鑑」を怪しい書物と判断した理由は、以下のような理由に依るようです。
1.日付の間違い
信玄の初陣、砥石崩れ、上田原の戦い、武蔵松山城攻め、上野箕輪城攻め、などの日付が明らかに間違っている。
2.ドラマチックすぎる書き方
歴史的事実を記しているにしては、あまりにもドラマチックで物語のようである。
これらの理由から、明治以降の研究者は、甲陽軍鑑は戦国の記録のようにみせかけた江戸時代のフィクションとみなすようになっていました。
おいおい! 実証主義はどこに行った?
実証主義に従えば、日付に間違いがあることは証明できます。しかし、できるのはそこまでです。日付の間違いがあるから偽書だ、という結論を導き出すことはできない。
田中氏の主張は、『武功雑記』を頼りに、その記述を絶対視し、持論を展開していることです。そこには、実証主義の片鱗もありません。何しろ、『武功雑記』については何ら分析していないのですから、話になりません。田中氏の採った研究方法では、甲陽軍鑑を偽書と位置づけることはできないのです。
田中氏は、『武功雑記』に書かれていないから『甲陽軍鑑』の山本勘助は存在しない、などという主張をしています。
それなのに歴史研究の分野では、甲陽軍鑑は信頼の置けない偽書として扱われてきました。
ここまでは、管理人が感じたことを書いたのですが、似たようなことを小説家の井沢元彦さんが『「誤解」の日本史』や『学校では教えてくれない日本史の授業 謎の真相』の中で書いています。管理人とは視点が異なるのですが、内容的には同じように感じます。
歴史秘話ヒストリアの放送内容
管理人は、戦国時代には関心がないので、甲陽軍鑑が偽書であるか否かには、はっきり言って関心がありません。管理人にはどうでもいいことです。
そんな管理人が、今回の記事を書くきっかけとなったのが、2018年8月29日にNHKで放映された「歴史秘話ヒストリア 武田信玄 「甲陽軍鑑」が語る真実」でした。
この番組を観て感じたのは、なぜ、「甲陽軍鑑」が明治以降、偽書として扱われ、研究者に顧みられなかったのかということでした。
戦国時代の歴史に関心のない管理人でも知っている甲陽軍鑑が、歴史研究者の間では偽書扱いされていたという放送内容を見て唖然としました。しかも、甲陽軍鑑が偽書ではないことを実証主義に基づいて証明したのは歴史学者ではなく、国語学者の酒井憲二氏であることに驚きました。
そして、偽書であるとの説を公表した歴史学者の田中氏の論文が、感想文レベルの内容なのには唖然としました。
これがこの記事を書くきっかけとなりました。
番組では、以下のような内容で放映されています。
歴史秘話ヒストリア ”武田信玄 「甲陽軍鑑」が語る真実”
平成30年8月29日、NHK総合で「歴史秘話ヒストリア 武田信玄 「甲陽軍鑑」が語る真実」が放映されました。
以下にその概要をご紹介します。
「甲陽軍鑑」は信玄の一代記。この書は偽書であるとして、かつては研究者に見向きもされない書物だった。
「甲陽軍鑑」の意味は、
- 甲陽 ⇒ 甲斐国(山梨県)
- 軍鑑 ⇒ いくさの手本
甲陽軍鑑には、既に知られた本編に加えて「末書(まっしょ)」と呼ばれるものがありました。
そこには、「末書の四冊は・・・本編の足らざる所を・・詳しく書いた」との記述があります。
この中に書かれている「子宰相」という女性。彼女の役割は、武田家臣団の縁組みを斡旋し、(征服して従っている)新しい家臣団と元からの家臣団を縁続きにして結束を強めようとしたと考えられています。(東京大学名誉教授(日本中世史) 黒田日出男さん)
信玄がどのような国家構想を描いていたかは想像を絶します。ところが、その想像を絶するはずの史料が甲陽軍鑑の末書にはちゃんと書かれているのです。
武田信玄が紛れもなく天下を取ろうとしていたことはもう動かない。
「ほしのや 日本一の名地」である。
「星谷(ほしのや)」とは、現在の厚木の北東、座間あたりを指します。
甲陽軍鑑はつい最近まで、後の時代に作られた偽書と言われてきました。その理由は、
- 日付の間違いが多い ⇒なんと、信玄の初陣の日も間違っているほど。
- 信玄の初陣
- 砥石崩れ
- 上田の戦い
- 武蔵松山城攻め
- 上野箕輪城攻め
第2は、歴史的事実を記しているにしてはあまりにもドラマチックで、物語のようであること。そのため、明治の頃から研究者たちは、戦国の記録のように見せかけた江戸時代のフィクションと見なすようになりました。
ところが甲陽軍鑑の評価は、全く別の視点からの分析によってがらっと変わることになります。
甲府。50年ほど前、ここで甲陽軍鑑の評価を一変させる研究が始まりました。
山梨県立大学(旧山梨県立女子短期大学)。担い手は意外にも歴史学者ではありませんでした。国語学者 酒井憲二さん(1928~2012)。
長年、国語辞典の編纂に関わった国語学者です。
教え子によれば、「おいあくまちゃん」。なにかあったら、これを心の中でつぶやくといいと教えられた。その意味は以下のもの。
- おこるな
- いばるな
- あせるな
- くさるな
- まけるな
地域に貢献したい。酒井さんが甲陽軍鑑を研究しだしたのは38歳の時のことです。1966年(昭和41年)4月、甲陽軍鑑は大日本国語辞典などの引例によく使われていることから、中近世語の宝庫として関心は持っていました。
江戸時代に大量に刷られた版本。出版の年によって大きさやすり方が異なります。国語学者の酒井さんが目を向けたのは、使われている言葉の微妙な変化。
たとえば、わずか三年の違いで、用いられる漢字やその読み方が異なっています。ということは・・・。
版本の時期を遡れば遡るほど古い言葉遣いが見つかるはずだ。そこで酒井さんは全国の図書館をできる限り廻ることにした。言葉はもちろん、刷りや印刷の鮮明さや紙の材質(料紙)などから年代を推定し、より古い甲陽軍鑑を探します。
酒井先生は探し続けました。そして12年目、1978(昭和53)年、今まで見た版本とは異なる特徴を持つ甲陽軍鑑に出会ったのです。その特徴とは。印刷ではなく、一字一字手で忠実に書き写された写本であること。つまり、言葉遣いや内容が原本に最も近い可能性があります。
単語とその意味を一つ一つ追っていく中で、古い日本語がたくさん見つかりました。
その1つが「ばしなる」。あの織田信長の性格を表した言葉ですが、意味は後ほど。
こうした言葉はいつの時代のものか。酒井さんは言葉の年代推定に挑みます。その時用いたのが「日葡辞書(ニッポジショ)」。戦国時代末に来日した宣教師が作った日本語とポルトガル語の辞書です。調べてみると、写本にある単語の七割ちかくが日ポ辞書にあったのです。ちなみに、先ほどの「ばしなる」。日ポ辞書には、せかせかしている、とあります。信長は当時そう見られていたんですね。酒井さんの年代絞り込みは続きます。
Vocabvlario da Lingoa de Iapam, 1603
次に注目したのは、「侮る」。日ポ辞書は、「あなどる」と「あなづる」、2種類の発音があるとし、その中でも、「あなどる」の方が多く使われるとします。辞書が作られた当時、発音が『あなどる』に統一されつつあったのです。しかし、写本では、逆に「あなづる」の方が多く使われていました。つまり、甲陽軍鑑の言葉は、日ポ辞書が編まれた戦国時代末期より古いと考えられるのです。
これらの分析から、酒井さんは、甲陽軍鑑は江戸時代の成立という定説に反論しました。
「この写本の言葉は日ポ辞書よりも一時代古い。甲陽軍鑑は室町後期の所産と見なければならない。」
まもなく酒井さんは、甲陽軍鑑偽書説を覆す決定的な証拠を写本の中に見つけます。文章を書き写した人物自身の注意書きでした。
「この部分の五分の一は切れて無くなったが、残った部分をよく見て、小幡勘兵衛が書き写した。」
小幡勘兵衛景憲は江戸時代の文学者。甲陽軍鑑を創作した張本人とみなされた人物です。しかし、注意書きに依れば、小幡はボロボロの原本を書き写して写本を作った人物だったのです。甲陽軍鑑を一字でも多く正確に写し留めようと心を砕く、恭謙・真摯な軍学者の姿こそあれ、偽撰者としての小幡景憲は全く見えてこない。そもそも、江戸時代の言葉で書かれていない。
酒井さんはこれらの事実から、甲陽軍鑑本編及び末書そのものを室町時代末期の著作物とみることは大よそ妥当なところと言えると考えます。
甲陽軍鑑は武田信玄が生きた室町時代末、つまり、戦国時代に書かれたものだと結論づけました。(1990(平成2)年6月)
この研究成果は、これまで偽書説を信じてきた歴史学者たちにも驚きを持って迎えられました。
小和田哲男静岡大学名誉教授(戦国史)は次のように述べています。
「歴史家は明治以来、あれは偽書だという言われ方をしていたので、まともに甲陽軍鑑とつきあうというか甲陽軍鑑の中身について事細かに研究する姿勢がなかった。
だけど、酒井憲二先生は国語学というかそういった方からのアプローチだったので、そういう先入観なしで、これは戦国史の資料としては「一級の史料」だと問題提起をされた。甲陽軍鑑研究に風穴を開けたと、私は見ていますね。」
酒井さんの研究は、甲陽軍鑑が100年近く被ってきた汚名を晴らしました。けれども、先ほど申し上げた日付の間違いやあまりにもドラマチックという問題は解決していません。これらの疑問を解く鍵。実は甲陽軍鑑に人生を捧げた1人の武将にありました。
武田二十四将図。この中に甲陽軍鑑の真の作者とされる人物がいます。手がかりはやはり、末書にありました。
自分の話を聞いたまま書くのだと弾正より申しつけられた。筆を執ったのは2人。大蔵彦十郎と春日惣次郞である。弾正とは信玄の側近、高坂弾正のこと。甲陽軍鑑は高坂が語った話を二人の部下が記録したものだというのです。
それを裏付けるように、甲陽軍鑑は読むものに語りかけるような表現で溢れています。さらに特徴的なのは、一文の長さ。高坂の語りをそのまま記録したため、甲陽軍鑑はドラマチックになりました。そして、日付の間違いも記憶違いや言い間違いのためと考えられています。
黒田:
甲陽軍鑑は、古い記述ほど誤りが多い。新しくなればなるほど正確さが増す。これは語りがあるからそうなるので、若い頃のことは間違える。あるいは、若い頃を大なり小なり美化する。これは人間的な語りです。
でも、どうして高坂は誤りが起きかねない方法を用いたのか。その理由も高坂が甲陽軍鑑で語っています。
「私はもともと百姓なので読み書きができない。」
高坂弾正は信玄の側近でありながら、なんと農民出身でした。しかし、実力があれば取りたてる信玄の目にとまり、16歳で家臣となります。身分の低さから侮られることもありました。
気を緩めず一心に奉公したため、読み書きを学ぶ暇がなかった。代わりに、人知れず取り組んだことがありました。それは、相手の話をよく聞き、よく覚えること。
甲陽軍鑑は農民出身の高坂が武田家で見聞きした記憶の集まりでした。そして、信玄と共に目指した天下統一。
主の家を救うために高坂が考えたこと。それこそ信玄のおこないを語り残すことでした。
信玄から学んだことを次の世代に伝える。 それは自分がすべきことだ。
「信玄公の工夫の数々を覚えて勝頼公の代の参考にする。」
こうして甲陽軍鑑は生まれたのです。語り初めて三年。1578(天正6)年6月14日、高坂は甲陽軍鑑の完成を見ること亡くなくなります。享年52。
高坂の遺志は記録を手伝った部下の一人に引き継がれます。春日惣次郎。高坂弾正の甥です。若くして高坂に仕え、読み書きを学ぶことができた惣次郎。高坂への恩返しにと、こう決意しました。
この春日惣次郎が高坂弾正ありし日のように書き継いでいく。
この四年後、1582(天正10)年3月11日、武田家は滅亡。かろうじて生き延びた惣次郎に思いがけない手紙が届きます。送り主は武田家を滅ぼした徳川家康。惣次郎を召し抱えたいと書かれていました。日々の暮らしにも困っていた惣次郎にとって願ってもない話。ところが、惣次郎は病気を理由に断った。そう伝えられています。その後、佐渡へ移った惣次郎。自分が見聞きした武田家の滅亡を記した甲陽軍鑑を完成させました。1585(天正13)年。「佐渡のさわだ(佐和田)という所で書き終えた。」
そして江戸時代。甲陽軍鑑は、惣次郎から武田家家臣の子、小幡勘兵衛景憲に伝えられます。景憲はこれを本にし世に広げました。信玄の活躍は版画にも刷られ、人々に親しまれていきます。こうして、武田信玄は語り継がれていったのです。
黒田:
戦国時代の人々のものの考え方、感じ方あるいは怒りのぶつけ方、そんなところまで含めたものをこれでもかこれでもかと語ってくれるのが甲陽軍鑑です。だから、人間味豊かな史料です。
参考文献
1. 『「誤解」の日本史』、井沢元彦、PHP文庫、2012
2. 『学校では教えてくれない日本史の授業 謎の真相』、井沢元彦、PHP文庫、2016
3. 『武功雑記』、肥前平戸藩4代藩主・松浦鎮信、国立国会図書館デジタルコレクション、1696