10月、行田市にある埼玉古墳群(さきたま・こふんぐん)を訪れました。一度は行きたいと思っていたのですが、アクセスが不便で重い腰は座ったままでした。
姉とその娘が企画し、レンタカーを借りて古墳を訪れることになりました。それに便乗して、ついに、埼玉古墳群を訪れました。
この古墳群の凄いところは、わずか数百メートルの範囲内に八つの巨大古墳があること。有名な『稲荷山古墳』もそのひとつです。
本サイトでは、観光案内を書くつもりはないので、埼玉古墳群までのアクセスとか、お土産などは出てきません。管理人の関心は、古墳そのものです。
ただ、埼玉古墳群を訪れるのは結構面倒なので、必要な情報のみ記載することにします。
『埼玉古墳群』とは
最初に『埼玉(さきたま)古墳群』について、概要を説明します。
埼玉県行田市にある古墳群は5世紀後半から7世紀中頃にかけて、大宮台地の北端に連続して築かれた前方後円墳8基、大型円墳2基、方墳1基並びに小円墳群で構成される古墳群です。台地上の狭い範囲に大型古墳が密集する、全国でも屈指の規模の古墳群です。(埼玉県立さきたま史跡の博物館HP)
今から1500年も前に造られた古墳を見ることができる。特徴的なのは古墳の築造年代かが5世紀後半から7世紀初めの百数十年間に限定されていることです。高校の日本史教科書『詳説 日本史』によれば、「五世紀後半以降になると、機内以外の地域では大規模前方後円墳の造成はまったくみられなくなり、ただ、近畿中央部でのみ巨大な前方後円墳の造営が、六世紀まで続く」、と書かれているようですが、ぜんぜん違いますね。(『詳説 日本史』、白石太一郎、2001, p.50) 埼玉では六世紀に入っても大規模な前方後円墳が作られていました。
これらの古墳群の中でも注目されるのが「稲荷山古墳」です。埼玉古墳群で最も古く、最も北に位置する古墳です。この前方後円墳は、頂上まで登ることができます。そして、後円部から前方部まで墳頂を歩くこともできます。
この古墳が注目される理由は、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」と呼ばれる全長73.5cm、剣身に表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が金象嵌で刻まれている鉄剣が発掘されたことにあります。
その内容は「辛亥年」(西暦471年)に「ヲワケの臣」(または「ヲワケコ」)が「杖刀人首」(「杖刀人」のトップ)として「ワカタケル大王」(雄略天皇)に仕えたことを示すもので、日本古代史の空白とされる5世紀を解明する上で欠かせない超一級史料が見つかったことにあります。
これを上回る史料は存在しません。中国の文献などは二次史料に過ぎません。それ故、1983年には鉄剣と出土品すべてが国宝に指定されました。
【世紀の発見 国宝金錯銘鉄剣(こくほうきんさくめいてっけん)】この鉄剣の何が凄いのか
発掘された鉄剣で注目されるのが、「辛亥年」(西暦471年)という十干十二支です。
なぜ、鉄剣に記された「辛亥年」が西暦471年だと分かるのか。これが分かるから凄いのです。
十干十二支は60年で一巡します。このため、かなりの確率で、その年を西暦に換算することができます。十干十二支については過去記事に詳しく書いたので、関心のある方は探してください。
下のExcelは管理人が作成した西暦 ⇒ 十干十二支換算シートで、紀元前にも対応しています。紀元前数万年でも十干十二支を表示できるので、日本書紀の分析にとても便利です。
管理人の関心は、西暦471年には倭国に暦が伝わっていて、それが、当たり前のように使われていたという事実です。『日本書紀』には、欽明天皇14年(西暦553年)6月のできごとを記したところに、初めて「暦」という言葉が出てくることから、この年を暦の伝来のように勘違いしてフェイク情報を発信している歴史研究者もいるようです。
鉄剣のインパクトは、なんと言っても「一次史料」だということです。他の中国文献を含む二次史料を受け付けない本物の史料だと言えます。
問題は、それをどう解釈するのかです。「辛亥年」は西暦471年ではなく、60年後の西暦531年説もあるようですが、Wikipediaにはその出典が示されていないので、根拠を確認できません。Wikiに記載するのなら出典を明記して欲しいと思います。
発掘された鉄剣の意味とは
稲荷山古墳から発掘された鉄剣。管理人は、当初、倭国の王から賜った鉄剣かと思ったのですがどうも違うようです。
「家宝」という言葉があります。大切な宝を先祖代々守って後世に伝える。まさに、家の宝です。しかし、家宝を副葬品として埋葬してしまうとそれで終わり。
このように考えると、この鉄剣は、埋葬された人物の代で栄誉は完結しており、埋葬行事を行った人物にとって、「鉄剣」の価値は「家宝」とは呼べないレベルのものだったと考えることができます。つまり、埋葬を行った人物にとって、「鉄剣」は、「家宝」とするほどの価値がなかったと考えられます。
鉄剣には何が書かれているのか
剣身に表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が金象嵌で刻まれています。この文字数について、「比較的多い」と書いている研究者がいますが、その主張はとても奇妙です。鉄剣の銘文としてはとてつもなく長いと評するのが正しいように思います。これ以上の文字数が記載された鉄剣が他にあるの? 石碑と混同していない?
さて、鉄剣に書かれた文字の内容とは。
(表面)辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏面)其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
この意味は何なのでしょうか。Wikipediaに読み下し文があります。
(表面)「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
(裏面)「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」
さて、意味が分かりましたか。何となく分かりますが、いまいち分かりませんね。これを口語訳します。
「辛亥の年七月に記す。私はヲワケの臣です。いちばんの祖先はオホヒコ,その子はタカリノスクネ,その子はテヨカリワケ,その子はタサキワケ,その子はハテヒ,その子はカサヒヨ,その子がヲワケの臣です。先祖代々親衛隊長として大王に仕え,いまに至っている。ワカタケル大王がシキの宮にあるとき,私は大王が天下を治めるのを助けてきた。そこで,このよくきたえあげた刀をつくらせ,私が大王に仕えてきた由来を記しておく。」(引用:「金錯銘鉄剣全文」)
鉄剣に書かれている「斯鬼宮(シキの宮)」とは、奈良県桜井市にあります。第29代欽明天皇(在位:539~571年)の宮があったとされる地域です。奈良から遠く離れた埼玉県で出土した鉄剣。もっと詳細な分析が必要なのではないでしょうか。
鉄剣の本物は、「さきたま史跡の博物館」にあるのですが、あいにく長期閉館中でした。2024年4月にオープンするようです。
なぜ、鉄剣を副葬品としたのか
管理人は、当初、この鉄剣は雄略天皇から下賜されたものだと考えていたのですが違いました。埋葬者自身が造らせた鉄剣でした。
気になるのは、鉄剣に記された銘文は、副葬品として供えられることを前提とした書き方になっていることです。鉄剣を「家宝」として代々引き継ぐという書き方ではありません。
鉄剣の刀身いっぱいに文字を配置するため、何度も校正をして文面を考えたのでしょう。銘文の「上祖」とは血縁上の祖先の意味ではなく、また、「其児」も親子関係の子供を意味するものではないようです。1)
さらに気になるのが、1500年も前に造られた鉄剣が朽ち果てずになぜ残ったのか、という疑問です。
鉄剣の成分分析結果を調べたのですが見つかりません。酸化しやすい鉄剣が朽ち果てずに残っていることから、鉄の純度がとても高かったのではないかと思います。
インドのデリーにある1600年経っても錆びない「デリーの鉄柱」は有名です。管理人が現地で見たときは、簡単な保護柵だけだったのですが、現在はしっかり囲われているようです。この鉄柱が錆びない理由は、純度99.72%の高純度な鉄(純鉄)で作られているからなのだそうです。
デリーの柱と同年代に作られた鉄剣が朽ち果てなかった理由は、銘文にあるように「よく鍛え上げた刀をつくらせた」のが理由のように思います。鍛えることで不純物が少なくなります。
稲荷山古墳
稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳です。この古墳が造られたのは5世紀後半頃と考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られました。
前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、発掘調査を基とした復原整備(1997年~)により2004年に復原されました。細かなことですが、「復元」ではなく「復原」です。
1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。そのうち礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つである『鉄剣』からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1983年に国宝に指定されています。(埼玉県教育委員会案内板)
墳丘の全長は120mで、周囲には二重の長方形の周堀がめぐります。墳丘、中堤のそれぞれ西側に、造出しという張り出し部が設けられています。
埼玉古墳群の古墳には、必ずその周囲に堀がめぐらされていました。なぜだか分かりますか。埼玉古墳群が建造された土地は、見渡す限りの平坦な地形です。平坦な土地に巨大な墳墓を築造するには、墳墓予定地の周囲を掘削して、その土で盛り土するしかありません。従って、古墳の周囲には必ず堀ができるのです。
稲荷山古墳は墳丘の頂上に登ることができ、復原された礫槨とともに、周囲の古墳を見渡せます。
上のGoogle画像は、上が北です。後円部の頂上は下の画像のようになっています。画面左手が北です。
この柵で囲まれた部分(礫槨)に埋葬されました。被葬者は北枕の状態で埋葬され、周囲には『鉄剣』を含む副葬品が見つかりました。ただし、遺体はすでに土に還ったようで見つかっていません。下の写真で、被葬者が青く型どられています。
上の写真で、直角方向に発掘跡が縁取られていますが、これが「粘土槨」です。ここは盗掘被害を受けており、わずかな副葬品しか見つかっていません。
ここで、埋葬場所の位置関係を再確認しましょう。
- 「礫槨」と「粘土槨」の遺体は、前方後円墳の「円墳」の頂部に埋葬された。
- 「礫槨」の遺体は、後円部墳頂の西端、南北方向に北枕で埋葬。
- 「粘土槨」の遺体は、円墳南端に東西方向に埋葬された。
なぜ、こんなことを詳しく書くのか、その理由は、2023年1月に発生した「二子山古墳盗掘事件」の真相をひもとくのに役立つからです。
2023年1月の埼玉古墳群『二子山古墳』の盗掘事件
稲荷山古墳の南200mの位置に二子山古墳があります。墳丘長 132.2m 後円部径 67.0m 後円部高さ 11.7m。埼玉古墳群内で最も大きい前方後円墳で、古墳時代6世紀前半の築造。
古墳保護のため、墳丘部への立入が禁止されています。そして、このことが盗掘を誘発することになりました。
2023年1月26日、特別史跡埼玉古墳群(行田市大字埼玉)の二子山古墳で、後円部墳頂部に人為的なき損(掘削)被害が2か所確認されました。
メディアの報道は意味不明で状況がさっぱり分かりません。そこで、埼玉県の県政ニュースから確認することにします。
犯罪者は何を探していたのか。そして、盗掘されたのは古墳のどの位置?
盗掘はいつ行われたのか
2023年1月26日(木曜日)に県立さきたま史跡の博物館学芸員が、同古墳の状態を確認するため、墳丘に登った際に盗掘痕を発見しました。ところが、いつ盗掘されたのかが分からないのです。それ以前に現地に行ったのが2022年3月4日のこと。盗掘はそれ以降のことと思われが、正確な日時は不明です。
立ち入り禁止にせず、公開していればこんなことにはならなかったのに残念です。
盗掘された場所はどこ?
毀損の場所は、二子山古墳 後円部墳頂中央部と墳頂東側。
墳丘の盛土部分のき損(掘削)
- 墳頂中央部 直径約90cm、深さ約250cmの円形
- 墳頂東側 縦約120cm、横約60cm、深さ約190cmの長方形
※墳丘盛土の掘削以外には被害は確認されていない。
なぜ、その場所が掘られたのか?
盗掘した犯人は、稲荷山古墳の埋葬位置を参考にしたと思ったのですが、ちょっと期待外れです。
掘るなら、墳頂部の西側と南側でしょう。犯人はなぜ、中央と東側を掘ったのでしょうか。何らかの根拠があってのことなのでしょうが、管理人には見当も付きません。
・・・と思っていたら、Wikipediaに意外なことが書かれていました。
稲荷山古墳から発掘された副葬品は、古墳築造時期より新しい6世紀前半に位置付けられる。この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあり、しかも出土した副葬品の編年から古墳築造時期より新しい6世紀前半に位置付けられるため、中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられている。実際1998年に行われたレーダー調査では、墳頂東端部と中央部で埋葬施設らしき反応が出ている。
ということで、稲荷山古墳の真の造墓者は、後円墳の中央、および東端部に埋葬された可能性が高い。
これって、二子山古墳の盗掘者が掘った場所と同じですね。
次に気になったのが盗掘者が掘った深さです。前述したように、墳頂中央部 直径約90cm、深さ約250cmの円形、墳頂東側 縦約120cm、横約60cm、深さ約190cmの長方形の穴が掘られていました。
1.9~2.5mも掘削したのですから、レーダーが探知した埋設物の深さがこの値だったと推測できます。
なお、稲荷山古墳の「礫槨」はとても浅く、40cm程度のようです。こんなに浅くてよく盗掘の被害に遭わなかったと思います。
二子山の盗掘者は、1日で掘ったわけではなく、夜間、数日かけて掘ったのでしょう。盗掘被害を避けるためには、頻繁に古墳頂部の確認が必要です。年に1回の確認ではあまりにも少なすぎます。古墳を一般公開することで、訪問者が監視役を担ってくれます。
埼玉県は、観光目的の施設建設にばかり力を入れるのではなく、遺跡の調査をもっと加速させるべきと感じます。
将軍山古墳
埼玉古墳群の北東部に位置する将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部に造られた横穴式石室が発掘され、多くの副葬品が出土しました。
石室には、遠方より運ばれた二種類の石材が使われていることがわかっています。墳丘の東側は削平され、崩落も進んでいたため、平成3年から古墳の復原整備工事が行なわれ、墳丘、周囲の堀の復原や、墳丘に埴輪のレプリカを並べるなど、古墳が造られた当時に近い形で整備されています。
古墳の内部には、複製の石室や遺物の置かれた状態を見学できる施設、「将軍山古墳展示館」が平成9年にオープンしています。
将軍山古墳展示館は、たぶん、世界で唯一、実際の横穴式石室を展示室として公開している特殊な構造の展示室です。展示館が古墳の中に造られているのです。
古墳の内部が展示室になっているという世にも奇妙な構造物。普通の日本人なら決して作らない構造物です。死者への冒涜になる! だから、誰も造らない。
これが造られたのは、元々、将軍山古墳が見るも無惨な半壊状態だったことが理由のようです。土取りにより、前方後円墳の形状をしていない。経緯を知らない人は、狭い価値観で無責任な発言をするのでしょうが、展示館建設計画を進めた当事者にとっては、墳墓の復原、維持管理費の捻出の観点から、これがベストな選択だったのでしょう。でも、違和感は感じます。
丸墓山古墳
丸墓山古墳は、6世紀初めに造られた名前の通り「円墳」です。直径105mで日本最大級の円墳として知られている。高さは19mあり、埼玉古墳群の中で最も高い。
埋葬施設については未発掘のためわかっていません。
ちょうど、小学生の遠足か課外授業のようで、たぶん、200人くらいの生徒が目の前を通っていきました。案の定、円墳に登る階段は大渋滞。しばらく待って、やっと頂上へ。子供たちは蜘蛛の子を散らすようにどこかに行ってしまいました。
この古墳はなぜ円墳なのでしょうか。 6世紀前半に造られたと考えられていますが、将軍山古墳は6世紀後半です。そして、稲荷山古墳は5世紀後半に造られました。丸墓山古墳だけが円墳で、その前後の年代の古墳が前方後円墳になっている。とても奇妙です。この当時の権力者は前方後円墳に埋葬されました。円墳は、これよりランクが落ちると考えられ、被埋葬者もランクが低い方だったと推測できます。
奈良県の富雄丸山古墳
丸墓山古墳の円墳としての規模は日本最大級。最大の円墳は、4世紀後半に築造された奈良県奈良市丸山にある「富雄丸山古墳」で、直径109m。丸墓山古墳はこれに次ぐ105mです。2023年1月、「富雄丸山古墳」から、木棺を覆った粘土層から過去最大、長さ2.37mの巨大な蛇行剣(だこうけん)、その下層から今までに例を見ない盾形銅鏡(鼉龍文盾形銅鏡:だりゅうもんたてがたどうきょう)が出土したとして公表されました。
奈良県に巨大な円墳が造られたのはうなずけますが、なぜ、埼玉にこれほどまでに大きな円墳が造られたのか。古墳の型式を変えるということはとても大きな権力構造の変化があったということでしょうか。権力を見せつけるための古墳なので。当時、この地域を支配していた豪族の勢力に交代があったのでしょうか。そして、この勢力は滅ぼされ、元の勢力が再び権限を握った?
もし、そうなら、丸墓山古墳は徹底的に破壊され、別の古墳を造るための土取り場になったはずです。そうはならずに現在まで残っているということは、権力者の交代ではなく、権力者の信仰する宗教が一時的に変わったと捉えることができるかも。
富雄丸山古墳から出土した「蛇行剣」には、現在のところ、銘文は確認されていません。検査に用いたレントゲンの強度は、剣が1本なのか複数の剣なのかを知るために設定されたものです。この検査の結果、1本の剣であることが確認されました。剣の表面に着目したレントゲン調査は行われていないと思います。今後の調査で、蛇行剣に銘文が確認された場合、日本史の謎の4世紀の歴史が明らかになるかも知れません。
前方後円墳については、桜井茶臼山古墳について大きな発見がありました。
2023年(令和5年)11月3日、奈良県立橿原考古学研究所は橿原市内で講演会を開き、同古墳調査の結果、国内最多の103面以上の銅鏡破片が見つかり、桜井茶臼山古墳の被葬者は「他の古墳の追随を許さない隔絶した地位にあった人物」であり、「3世紀末の奈良盆地には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と発表した。
Wikipedia、桜井茶臼山古墳
出典:
1) 『鉄剣銘「上祖」考 氏族系譜よりみた王統譜形成への一視角』、義江明子、国立歴史民俗博物館研究報告第152集、 2009年3月