お公家さんの衣装をまとったこの美人は誰?

はじめに

 ネットで見つけた古い写真。公家のお姫様のように、眉よりも高い位置に「殿上眉」という長円形の眉を墨で描く女性。小袿・袿・小袖姿。何より気になるのがそのお顔立ち。

 こんな日本人いるの? の世界です。早速調べてみます。

Mysterious Japan; (1922), WIKIMEDIA COMMONS p.171

日本人離れした美貌の持ち主は誰?

 日本人離れした美しい女性。これは誰なのでしょうか。

 調べてみると、日本人離れしている理由が分かりました。実は、外国人、アメリカ人でした。

 彼女は、Mrs.Charles Burnett として紹介されています。この写真が撮影されたのは大正10年(1921年)のこと。

 ミセス・バーネットと書かれても彼女のお名前が分かりません。調べてみると、「フランセス・ホークス・キャメロン・バーネット(Frances Hawks Cameron Burnett)」であることが分かりました。

 以下、彼女のことを「フランセス」あるいは「バーネット夫人」と書くことにします。

 フランセスが日本に初来日したのは、明治37年(1904年)のこと。フランセスは20歳の新婚で日本にやってきました(この情報は間違っている可能性が大です。記事の中で訂正しています)。

 なぜ、日本に来たかというと、夫のCharles Burnettが在京米国大使館付きの武官して来日する際に同行して来たようです。

 さて、上の写真が撮影された時、フランセスは何歳だったのでしょうか。答えは、38歳。

 ざっと調べたところで、いよいよ本サイトの特徴である深追いに入ります。

フランセス・ホークス・キャメロン・バーネットとは

 フランセス・ホークス・キャメロン・バーネットという女性について詳しく調べてみます。

 彼女は、1884年2月6日に米国テキサス州ダラスで生まれ、1957年10月10日にルイジアナ州アレクサンドリアで73歳で亡くなっています。

 彼女は、1905年3月14日、バーモント州でチャールズ・バーネットと結婚しました。

 詳細は、以下で書きます。

和歌に精通していたフランセス

 上の写真は、”Mysterious Japan Julian Street, 1922″ に掲載されたものです。

 この書物の中で、フランセスについて短く説明してる箇所があります。(pp.165-166) 

「ここで少し脱線して、9世紀に始まった宮中行事である「御歌始め」という興味深い習慣について触れておこう。 毎年12月、新年を迎えるにあたり、皇室が歌壇に無記名で歌の題材を公募する。
宮中で朗読された歌人の名前が発表されたとき、その中にアメリカ人女性、フランセス・ホークス・バーネット(在東京アメリカ大使館武官バーネット大佐の妻)がいることが判明したのである。バーネット夫人は、日本語の詩(和歌)で皇室のお墨付きを得た唯一の外国人女性という異色の存在となった。
バーネット夫人は、ペリー提督の日本訪問に同行したニューヨークの故フランセス・リスター・ホークス博士の姪であり、ペリーの協力者として、「アメリカ艦隊遠征記(”The Narrative of the Expedition of an American Squadron.”)」というタイトルで出版された航海の公式記録を執筆していることは、この関連で興味深いことである。 皇室に読ませるのに最もふさわしいものを選ぶ「御歌始め」。1921年(大正10年)には、各地から寄せられた7万首の中から、最もふさわしいものを選びました。」(DeepL翻訳)

 さらに、”Bridging Two Empires: Frances Hawks Cameron Burnett and Her Passion for Japanese Poetry” という書籍には、

 「フランセス・ホークス・キャメロン・バーネット(1884-1957、以下バーネット)の生涯は、在日アメリカ大使館のチャールズ・バーネット中尉の妻であり、世界の前に日米関係に関連する男性と女性の活動を結びつける3番目の写真を提供します。第二次世界大戦。バーネットは、1911 年から 1929 年までの人生のほとんどを日本で過ごしました。彼女は公式の外交を行う資格はありませんでしたが、チャールズ・バーネットの配偶者として準外交的な脇役を演じることが期待されていました。興味深いことに、彼女は日本語で詩を書くことを選択しました。」(DeepL翻訳) と書かれています。

 何となく、フランセスがどのような女性だったのか、輪郭が見えてきました。

 さらに、国会図書館には、彼女が日本で出版した書籍『雲のかよひ路』(昭和3年)と『日星帖』(大正10年)を公開されており、閲覧可能です。

 最初、『雲のかよひ路』を見て、何て達筆なんだと驚きました。毛筆で書かれた冊子です。ところが、『日星帖』を見ると、それなりの筆遣いです。大正10年から昭和3年の間に、筆遣いが上達した?

 管理人にはそうは思えません。昭和3年の書物はフランセス直筆のものではないと思います。そう思う理由は、『日星帖』には英文が書かれているのですが、どちらかと言えば彼女の文字は悪筆です。日本人よりへたくそという感じの英文字を書きます。それが8年の間に日本人より上手に筆文字を書けるように上達したとは考えにくい。

 ここまで読んだ方は、国会図書館で確認したくなったのではないでしょうか。

 リンク先は、『雲のかよひ路』『日星帖』です。管理人は国会図書館に登録しているので、このリンクで開けますが、未登録だと開けないと思います。登録して下さい。

 フランセスのことを日本の学術文献では「米女性詩人」として紹介されています。でも、そうなのでしょうか。和歌を詠める米国人。”poet” を翻訳すれば「詩人」になるのでしょうが、「歌人」という日本語があります。夏井いつき先生のことを「詩人」と紹介されたらご本人は怒るのではないでしょうか。

 英語文献の “poet” をそのまま「詩人」と翻訳するのはいかがなものかと思います。フランセスの書いた「詩」ってどこにあるの?

新渡戸稲造・万里子(メアリー)とフランセス

 大正3年(1914年)4月、新渡戸稲造夫妻らが日本人道会を設立します。新渡戸稲造の夫人はアメリカ人メアリー・エルキントン(日本名:万里子)です。

 新渡戸稲造がアメリカに留学した時に言い寄られて結婚したのが万里子夫人、のようです。

 この日本人道会にフランセスも深く関わることになります。日本人道会の活動メンバーは、アメリカのバーネット夫人(フランセス)や万里子夫人など日本に住む外国人が中心でした。フランセスの関心は、動物愛護精神の日本での普及にありました。

 当時、動物愛護運動は、キリスト教理念に基づく欧米系、つまり、万里子夫人やフランセス夫人を中心としたグループと、仏教系のグループの二つがあったそうです。

  • 明治15年(1882年)~明治19年(1886年) 新渡戸稲造 アメリカ留学ジョンズ・ホプキンズ大学に私費留学(20-24歳)
  • 明治20年(1887年)~明治23年(1890年) 新渡戸稲造 ドイツ官費留学 ボン大学、ハレ大学(25-28歳)
  • 明治24年(1891年) 新渡戸稲造、ドイツ留学の帰途、アメニカに行き、アメリカ人メアリー・エルキントン(日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚。帰国

  フランセスは、日本の古典文化を愛し、皇室、特に昭憲皇太后に対して深い敬愛の念を抱き、さらに、日本で動物愛護の精神を定着させることに情熱を傾けました。

 これには、いくつかの理由があるようです。

 1911年、フランセスが東京に着いてすぐ、野良犬を撲殺しようとしている男と出くわし、犬を助けたという出来事がありました。その話が動物好きであった明治天皇の皇后美子(はるこ)様の知るところとなり、それをきっかけにフランセスと皇室との関係ができたようです。ということで、フランセスは、皇后美子様が大好き! 日本の古典・文学に関心を持つようになり、さらには、動物愛護活動にも携わるようになります。

 そして、1927年、フランセスが動物愛護週間を提唱し、それが実現します。そして、その時期は、フランセスが敬愛する昭憲皇太后(明治天皇の皇后美子さま)の誕生日(1849年5月9日)を記念して1927(昭和2)年5月28日から1週間行われました。なぜ、ここで昭憲皇太后が出てくるのか、その理由が分かったと思います。

謎だらけのフランセスの経歴

 通常、フランセス(バーネット夫人)のような有名人の経歴は簡単に分かります。ところがフランセスの経歴が分からないのです。

 ネット上にあるフランセスの経歴をまとめると下のようになっています。

 フランセス・ホークス・キャメロン・バーネット(Frances Hawks Cameron Burnett)

 明治44年(1911年)~昭和4年(1929年)まで米国大使館付け武官の夫とともに東京・日本で過ごす。

 具体的には、以下のようになっています。

明治17年(1884年2月6日)フランセス、米国ダラスで生まれる。
明治37年(1904年) フランセス、初来日(20歳) 3年間日本滞在
明治38年(1904年) チャールズ・バーネット(Charles Burnett)と結婚
明治39年(1905年) チャールズ・バーネット(Charles Burnett)と結婚 ⇒ たぶんこれが正しい 6)
明治39年(1905年) フランセス米国に帰国
明治44年(1911年) チャールズ・バーネット日本赴任 1914年11月 帰国
大正3年(1914年)4月 新渡戸稲造夫妻らが日本人道会を設立。活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど日本に住む外国人が中心
大正4年(1915年) フランセス二度目の来日(31歳)。同年帰国
大正8年(1919年) フランセス三度目の来日(35歳)
大正9年(1920年) 明治神宮創建
大正10年正月(1921年) 宮中歌会始で1万7千首の中から第4位に入賞。受賞は外国人初。この年のお題は「社頭暁」
大正12年(1923年)米国に帰国(1924年2月説も 履歴)
大正14年(1925年)~昭和4年 四回目の来日(41歳)
昭和2年(1927年)日本人道会のバーネット夫人が動物愛護週間を提唱
昭和3年(1928年)円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter)が開設された。 
昭和4年(1929年)10月19日 バーネット夫人米国に帰国
昭和13年(1938年)9月23日 新渡戸万里子死去(81歳)
昭和14年(1939年)11月27日 夫チャールズ・バーネット、東京で死去(62歳)。バーネット夫人も日本を去る。
昭和32年(1957年)10月10日、ルイジアナ州アレクサンドリアで73歳で亡くなる。

 上の系譜でまずおかしな所は、結婚した年です。アメリカのファミリーヒストリーの資料で、チャールズ・バーネットがフランセスと結婚したのは1905年とどちらの家系図にも書かれています。

 すると、1904年にフランセスが初来日したとは考えられません。誰かが1904年来日説と新婚で駐在武官の夫に同行してきたフランセスというイメージから、1904年結婚説をでっち上げたと考えられます。フランセスが結婚したのは1905年です。したがって1904年来日説は完全な誤りです。

 次に、夫のチャールズ・バーネットが日本に最初に赴任したのは、1911年です。チャールズの系譜を調べると、陸軍士官学校を卒業後、フランスやフィリピン・ミンダナオ島などで勤務し、戦闘に加わったりしており、日本に大使館付き駐在武官として派遣されたのが1911年。それ以前に日本に来た形跡はありません。もちろん、フィリピンへの赴任の途中で数日間日本に寄港した可能性はありますが。

 フィリピンの勤務は、戦闘を伴うものであったことから、夫人同伴だったと考えるのは無理があります。やはり、明治44年(1911年)がフランセスの最初の訪日と考えられます。

 また、夫チャールズ・バーネットが昭和14年(1939年)11月27日に東京で亡くなったという記事を書いている方もいますが、これは明らかに間違っています。チャールズ・バーネットは、1939年11月27日にアメリカ・ワシントンD.Cで62歳で亡くなっています。そして、1939年11月、フランセスが日本を離れ帰国したことも当時の新聞記事で確認できます。ということは、フランセスは単身で日本に来ており、夫の訃報を受けアメリカに戻った、と考えられます。一部の作文好きの日本人が、「チャールズ・バーネットが亡くなった、チャールズ・バーネットは大使館付き武官、夫人が東京にいるのだから、夫が亡くなったのは東京」、という何の確認もせずに三段論法で作文したようです。

 チャールズ・バーネットが大使館付駐在武官をしていたのは、1919年9月24日から1924 年2 月、および、1925 年から 1929 年までです。軍務記録から確認できます。これ以外は日本に来たことはありません。彼の軍務はとても多忙。その記録が残されているので、日本駐在は上で示した期間以外はあり得ないことが分かります。

 フランセスの記録がめちゃくちゃなのは、当時の新聞がいい加減なことを平気で書くという悪癖があることによります。

 たとえば、次の記事をご覧下さい。

「夫人が始めて日本にきたのは明治三十七年の日露戦争の正にたけなわなるころで、明治新婚間もない花恥づかしい十七の春であった」(The Japanese American New, November 12. 1929 3面)

 これは、1939年、フランセスが帰国する時の新聞記事なのですが、ネット上で見られる日本語の記事で誤りが見られるのは、この記事が原因と考えられます。この記事の内容がデタラメだからです。

 フランセスは明治37年(1904年)にはまだ未婚だし、17歳でもありません。誤った情報を発信している方は、辻褄を合わせるために、1904年に結婚、そして初来日というストーリーを作り上げたようです。

Frances Hawks Cameron Burnett

おわりに

 問題の写真を初めて見たとき、お公家さんの奥様にこんな美形の方がいたのかと思ったのがこの記事を書き始めたきっかけです。

 調べていくうちに、和歌の書籍を日本で出版したり、宮中歌会に選出されたりと、日本に造詣の深い方だったことが分かりました。さらに、新渡戸稲造の外国人妻との関係。動物愛護の精神を日本に根付かせることに貢献された方だと分かりました。また、帰国後は、日米関係が悪化する中、両国の架け橋になろうと奮闘されたようです。

 しかし、フランセスのことを知っている日本人はほぼ皆無でしょう。

 本サイトの過去記事『山川三千子『女官ー明治宮中出仕記ー』が面白い』と同じ時代の出来事です。過去記事と合わせて読むと、理解が深まると思います。

 明治天皇の皇后美子さまが大好きなフランセスのことを書いていたら、山川三千子さんのことを思い出しました。三千子さんも美子さまが大好き!

 本稿では、「フランセス・ホークス・キャメロン・バーネット(Frances Hawks Cameron Burnett)」と「フランセス」という表記にしていますが、彼女の父親の名前は、「フランシス・ホークス・キャメロン・バーネット(Francis Hawks Cameron Burnett)」です。1字違いで悩ましい。

 フランセスは、歌人九条武子ともつきあいがあったようで、武子からの書簡が何通も残されています。フランセスは、九条武子の死を悼み、歌を送っています(『雲のかよひ路』)。本当は、新渡戸万里子との関係から、歌人ではなく社会運動活動家としての九条武子のことをもっと書きたかったのですが、この辺で終わりにします。奴隷制度を固辞するアメリカ南部出身のフランシスの人間に対する思想と皇后美子さまとでは、動物愛護の視点では同じだったとしても、「人間」に対する根本的な違いがあったのではないかと、管理人は考えます。

 もう一つこの時代について書いた過去記事をご紹介します。それが『三角錫子と「真白き富士の根」と逗子開成中学ボート転覆事故の謎を追う』です。

  特定の時期の出来事を様々な視点から俯瞰することで、その時代のことがより理解できる。まさに、そのお手本のような記事になっていると思います。

出典:

  1. 万葉集歳時記 一日一葉
  2. 歌会始」、Wikipedia
  3. 帝國ノ犬達
  4. Bridging Two Empires: Frances Hawks Cameron Burnett and Her Passion for Japanese Poetry“,Taeko Shibahara,2010
  5. Frances Hawks Cameron Burnett papers, 1818-1936“, LIBRARY
  6. https://findingaids.loc.gov/exist_collections/ead3pdf/mss/2010/ms010054.pdf