義経は平泉で死んだはずがないこれだけの根拠

 源義経は、岩手県衣川で死亡した。この定説に異論を唱えることは、歴史学の世界ではありえないこと。E・Hカーの『歴史とは何か』を歴史学の基本とする人たちは、出典を明示せずに書籍を書くという日本特有の悪癖を指摘する人はいません。カーの言っている意味を取り違えているのでしょう。

 今日は、この問題を追ってみたいと思います。

 ところで、皆さんは義経は衣川で死んだと思いますか?

 管理人のスタンスは、はっきり言って「中立」です。もう少し言えば、「どうでもいい」ということです。義経がどこで死のうが生き延びて中国に渡ろうが、どうでもいい。義経という人物に対して関心がないのです。

 では、なぜ、今回の記事を書くことにしたのか。

 それは、歴史書の記述がおかしいと感じたからです。

歴史学者の主張はいつも正しいのか?

 歴史学の基本的考え方は、「信用できる史料から過去の事実を明らかにするのが歴史学」というものです。もっともらしい説明ですが、これって嘘ですね。

 この研究手法では歴史など何も語れないのは明白です。そんな都合のよい史料などあるはずもないからです。見つかる史料はいつも「点」の情報しか提供しません。

 ここで歴史学者のインチキが始まります。

 史料で判明した「点の情報」を他の「点の情報」とつなぎ合わせて歴史を語る、という独特の手法。ここには、実証主義は存在しません。「点の情報」をどうつなぐのかは歴史学者の思惑次第。そこにはだれも検証できないという根本的な問題が存在します。 史料に基づいてしか語れない歴史学の手法は、史料がないのに語っている現状とミスマッチを起こしていると言うことです。 

 このことは、史料に基づいて語るのが歴史学者であり、それ以外の主張は科学的根拠がないと排除してきた歴史学者の詭弁であると言えます。 

 歴史の定説が新史料の発見により覆った! などのお笑いぐさが近年満ちあふれています。それは「点の情報」をつなぐという研究手法に明らかな過ちがあったということを示しています。ところが、驚いたことに、歴史学の世界ではそれを指摘する人はいません(笑)。

 新たな史料の発見により歴史解釈が変わるのは当たり前との立場のようです。それこそが「詭弁」と管理人は考えます。

 義務教育の歴史の教科書が、近年、頻繁に書き換えられているようです。新しい史料が見つかることで、これまで定説とされていたことが覆されたのが原因のようです。

 マスコミの報道は、この程度なのですが、古代史の謎の記事を書いている管理人には、このようなマスコミの記述は許しがたい!

 管理人の視点は、なぜ、歴史学者が誤った歴史教科書を書いたのか、ということです。

 新しい史料が見つかったから? バカも休み休み言えよ! 

 管理人が問題視するのは、新しい史料が見つかったから、という理由で、これまで定説とされてきたことが否定され、新しい説が定説となる、という奇妙な状況に対してです。

 管理人の認識では、そもそも「定説」とされてきた根拠が薄弱だったからこんな不祥事が生じる。そう思います。つまり、「定説」の定義を明確にし、それに伴う責任を明らかにすべきだと思います。

 歴史学会の重鎮が主張した学説には、他の歴史学者は異論を唱える事ができない。まったくもってナンセンスの世界。いっそ、学者をやめたら? とアドバイスしたくなります。

 ネット上の歴史サイトの書き込みを読むと、駆け出しの研究者らしき人が、もっともらしいことを書いていますが、それを読んで、歴史の研究者はこの程度なのかと呆れてしまう管理人のような読者もいます。

 歴史の定説とされ、教科書にも載っている”史実”は、その根拠を尋ねられれば誰も回答できないというイカサマ歴史がたくさんあるようです。突き詰めれば、歴史学会の重鎮が主張した! これが答えのようです。「点の情報」しかないのにそれをつなぐ考え方を示した重鎮の見解が絶対視される世界です。そこには、実証主義の片鱗も見られません。

 「点の史料」しか存在しないのに、それをつなぎ合わせて主張する部分には、科学的な説明ができない研究者個人の主観が入っていることを隠しています。そして、「定説」とされる考え方に対しても、その根拠を示すことなくお茶を濁しています。「定説」とされる根拠にたどり着けない。何しろ、出典を明示しないのが日本の歴史学者の姿勢のようで、外国の歴史文献と比較しとても異質に感じます。

 だから、教科書が書き換えられても誰も責任感を感じない。こんな無責任な学術分野がほかに存在するのでしょうか。

なぜ、義経は平泉で死んだことになるのか

 管理人は、義経は自分勝手な人望のない人物だったと考えています。その根拠は、

源義経 -Wikipedia-
平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。

元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。

一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。

このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現神奈川県鎌倉市)の満福寺に義経は留め置かれた。5月24日、頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が腰越状である。

(中略)

結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。 このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。

元暦2年(1185年)10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、10月18日に頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。 京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。  さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。

29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。11月7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方11月25日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を認めさせた。

 古来からの家臣団を持たない頼朝が最もあてにするのは肉親です。このことから、この時期に異母弟である義経を殺害しようとした経緯がどうも怪しいと感じます。さらに、戦に弱い頼朝と比較し戦上手の義経を排除するとは考えにくい。裸の王様の頼朝が、肉親を殺害する命令を本当に出すのだろうか?

 当時は、むしろ肉親同士の骨肉の争いが一般的で、身内ほど徹底的に排除するのが当時の倣い、という意見もあるようですが、果たして真実はいかに?

 当然、そのような風潮があったことは否めませんが、それが頼朝に当てはまるのかは別問題です。都合の良い部分だけを取り出して主張されても、それは薄っぺらな主張と管理人は感じます。

 そもそも、頼朝は、奥州平泉に対し義経を討つことを命じておらず、身柄の拘束を命じています。

 もし、義経にカリスマ的な人望があったのなら、義経のもとに多くの武士がはせ参じたと考えられますが、歴史上、そのような事実はありません。文治元年10月18日(1185年11月18日)、後白河法皇が源義経に「頼朝追討の宣旨」を発するも兵が集まらず、義経は都落ちすることになります。義経は伝家の宝刀『院宣』を手に入れても兵が集まらなかったのです。

 この辺が歴史の通説と乖離しているように感じます。歴史の解釈が間違っているのではないかと。

義経英雄伝説の幻想

 義経が戦の天才だったことは歴史が物語っています。しかし、彼には、部下を掌握する能力に欠けていた。兄頼朝と比較して明らかに劣っています。

 結局、義経には人望がなかった上に、人脈もなかった。それが、京都から逃げ延びることになる理由でしょう。

 義経を英雄視する物語とは裏腹に、義経には時流を見極める力量も、人心を掌握する力量もなかったことは明白です。

 では、頼朝にはそれがあったと言えるのか。実際の所、頼朝も似たり寄ったり。まさに薄氷を踏むような感じだったように思います。明日は誰が裏切るか分からない!

 後世の研究者は、頼朝がずば抜けた統治センスの持ち主のような幻想を何の根拠も示さずに主張しますが、実際の所、頼朝に従う人たちはいつ反旗を翻すか分からない人たちです。「御恩と奉公」の関係など、後世の人たちが考えたこと。自分の所領が安堵されることで満足するような人たちだけなら戦は起きません。

 そもそも、何で「源氏」に従う必要があるのか。日本には平氏と源氏しか存在しないのか? 誰もが感じる疑問です。この二大勢力の範疇で歴史を語ろうとするから辻褄が合わないことがたくさん出てきます。

頼朝は義経を殺せとは命じていない

 一つの仮説を考えてみます。「義経、スパイ説」です。頼朝の命を受け、奥州藤原氏の懐に飛び込んだ義経。そんな仮説を考えてみましょう。

 平家を打倒した頼朝にとって、目障りなのが奥州平泉の存在です。

 頼朝がまず狙うのは、藤原氏が宋から入手した宋の行政機構の仕組みです。武家による天下統一を果たしたい頼朝が切望していた情報です。この情報を入手するため、腹心で肉親でもある義経をスパイとして平泉に送った頼朝。平泉で育った義経ですが、行政の仕組みに関心がなければ、ただの凡人に過ぎません。

 義経はこの情報を盗みだし、頼朝のもとに送ります。目的を達した義経は、敵陣から離脱してもよいわけです。しかし、平泉に留まった。

 ここで、この作業仮説を棄却することは簡単ですが、もう少しがんばってみます。

 スパイとして送り込まれた義経が、なぜ、平泉を脱出しなかったのか。

 脱出など簡単だと考えていたのではないか。岩手の山は深い、山に逃げ込めば現実問題として探し出すのは不可能です。現代でさえ山で遭難した人を見つけられない。

 泰衡が大軍で義経の屋敷を襲った理由はこのためでしょう。山に逃げ込まれたら見つけ出すのは難しい。映画では簡単に見つけられますが、現実的にはほぼ不可能でしょう。赤外線感知ができるドローンでも使わない限り、山に逃げ込まれたら見つけるのは不可能です。

義経伝説と地域に残る伝承はまったく別物

 歴史学者が触れないのが地域に残る伝説や伝承です。その理由は、文字で書かれた「史料」ではないので研究対象とはならないからです。

 では、地元に残る伝説や伝承は、本当に無視してよいものなのでしょうか。こんな疑問が生じます。

 東大史料編纂所の本郷先生も、「火のないところに煙は立たない」と伝説や伝承をむやみに否定するのは問題だとの立場のようです。

 義経生存説では、義経は北に逃れたとされており、その足跡も辿れるほどにしっかりとした伝承が伝わっています。

 義経北行伝説の特徴は、なんと言ってもその逃避行の足跡を辿れることです。

 偽歴史について研究する文筆家長山靖生(ながやまやすお)さんは、「不遇で亡くなった英雄が実は亡くなっていなくてどこかに逃れた、という話は、義経に限らず、日本に限らず、世界中にたくさんある。生きていて欲しいというのが民衆の願いですから、この願いに基づいた物語は当然作られる。」1) と主張しますが、義経の伝承のように逃避行の足跡を辿れる事例が他に存在するのか、という疑問が沸きます。

 その足跡の数がおびただしい! 普通であれば、これは単なる伝承ではなく、真実なのではと考えるのが妥当でしょう。

義経北行伝説の足跡

 もし、義経に生きていて欲しいという民衆の願いが伝承になったとするのなら、このおびただしい数の伝承をどう説明するのか。そして、その伝承の日付が一本の道筋を描いていることをどう説明するのか。そのような事例が、世界中の伝承・伝説で存在するのか?

 これは調べるまでもなく、世界には存在しません。その理由は、義経北行伝説の足跡の数が圧倒的だからです。そして、そのルートが具体的です。これは義経北行伝説にのみ存在するという現象です。

 世界には義経伝説のようなものがたくさんある、・・は嘘です。そんなものはない! あるのは義経伝説だけです。

義経自刃説のほぼ唯一の根拠である吾妻鏡には義経は生きていると書かれている

 義経は、奥州衣川で自刃した、と鎌倉幕府の公文書とされる吾妻鏡に記載されています、と一般的には説明されています。

 それって本当なの? 吾妻鏡には義経死亡後にも義経蜂起の記述も書かれています。

 吾妻鏡10巻文治6年1月

文治六年(1190)正月小六日辛酉。奥州藤原氏の故泰衡の家来大河次郎兼任以下が去年の十二月以来、反逆を計画し、義経だといって出羽の国の余目町に現れ、又は木曾冠者義仲の息子の朝日冠者(義高)と名乗って秋田県横手市で蜂起して、互いに連絡を取り合って、ついに兼任は、長男の鶴太郎次男の於畿内次郎(花巻)と七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発した。

吾妻鏡 文治六年(1190)正月小六日辛酉条

 これが歴史学者が使う詭弁の一つです。吾妻鏡は「鎌倉幕府編纂の公文書」と説明し、そこに「義経自刃」と書かれているから、義経が平泉で死んだのは間違いない、との説明です。

 これって嘘ですね。

 同じ吾妻鏡の中に、(義経の死後)義経蜂起の記述があります。義経が生きていると当時の人も信じていたのです。

 何がおかしいかお気づきでしょうか。

 歴史家が太鼓判を押して、義経自刃の根拠とした吾妻鏡に、なぜ、義経の死後に蜂起の記述があるのか。公文書であれば、絶対に書かない内容です。

 「いやぁ、吾妻鏡は公文書じゃないし、日記のようなものだし、・・。」

 それじゃあ、説明の論理が破綻しているんだけど。  

義経の首が鎌倉に届いたのが遅すぎる疑惑説はフェイク

 義経生存説を唱える人たちがその根拠として必ずあげるのが義経の首実検の日にちが義経死亡からあまりにも遅すぎるということ。

 これを『吾妻鏡』に書かれているから正しいとして持論を展開する執筆者のなんと多いことか。

 ところが、彼らはここでとても汚い手法を用いています。『吾妻鏡』に書かれていることを紹介せずに、謎を作り上げるという手口です。

 まず、義経の死亡については、吾妻鏡 第九巻 文治五年(1189)閏四月卅日の条に次のように書かれています。

文治五年(1189)閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。

吾妻鏡 第九巻 文治五年(1189)閏四月卅日已未の条

 次に首実検の部分です。『吾妻鏡』第九巻文治五年(1189)六月大十三日の条に書かれています。

文治五年(1189)六月大十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實檢。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各着甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。

吾妻鏡』第九巻文治五年六月大十三日辛丑の条

 義経が死んだのは、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)。彼の首が鎌倉腰越に着いたのが 文治5年6月13日(1189年8月3日)。つまり、死後49日経って鎌倉に入ったということです。

 これには理由があります。藤原泰衡側が義経の首を鎌倉まで時間をかけてゆっくり運び、その間に首級が腐敗して顔が分からなくなるのを期待した、というのが大方の義経生存論者の主張です。

 このやり口はちょっと恥ずかしいので、このように主張する人がいなくなるように正しい情報を記載します。

 この謎の答えは、なんと『吾妻鏡』に書かれています。

文治五年(1189)六月大七日乙未。御塔供養事。被經御沙汰。爲社頭之間。依与州事。可延引之由。雖被申京都。導師既下向。又自 仙洞被下御馬已下之上者。於供養者。可被遂之。次二品御出事。御輕服三十餘日馳過訖。是非御奉幣之儀。直不可令入内陣給者。有何事哉之由被定之。仍与州頚。無左右不可持參。暫可令逗留途中之旨。被遣飛脚於奥州云々

文治五年(1189)六月大七日乙未の条

 文治五年(1189)六月九日(1189年7月30日)の五重塔完成式典(落慶供養)の関係から、喪中の頼朝を慮(おもんばか)り、この重要な時期に、義経の首を鎌倉に持ってこられては困るので、到着を遅らせるように飛脚を奥州に遣わしたとあります。

 そして、義経の首が腰越に到着したのが、まさに喪が明ける49日目のこと。

 頼朝が弟義経を殺してしまったことを後悔して喪に服していた訳ではありません。これは「穢(けが)れ」の発想から来ています。「死」とは「穢(けが)れ」。それを他の人に移さないため喪に服し、行事などを控え、家に閉じこもるのが当時の習慣でした。

 頼朝は亡母・由良御前の供養のため、鶴岡八幡宮の伽藍を整備し五重塔を建てます。その五重塔の落慶供養の日を六月九日と決定します。しかし、五月二十二日、奥州から、閏四月三十日に源義経が自刃したことが伝えられます。頼朝は、「穢れが生じた」として、供養日を遅らせようとしますが、準備が進んでいたため延期できず、結局、予定通り六月九日に供養の式典を行います。

 そして、供養からわずか2年後の建久2年3月4日(1191年4月6日)、小町大路で発生した火災が五重塔に飛火し、鶴岡八幡宮は五重塔もろとも灰燼と帰すことになります。

 これは義経の祟りでしょう。落慶供養から消失まで615日でした。義経が自害したのは西暦で1189年6月15日です。義経の祟りを語る上で”615日”は重要な視点かも(西暦だけどね)。

 服喪の期間は、延喜式(927年、平安末から鎌倉初めは『法曹至要抄』2) )で規定されていました。頼朝といえどこれに逆らうことなどできません。

 ところで、文治五年六月二十日条に、「頼朝様は、(鶴岡八幡宮の臨時のお祭へ)義経の服喪の日数が終わってないので、お宮へは参りませんでした」という記述があります。義経の死後56日後の記述です。この頃の服喪期間が少なくとも56日以上だったことがこの記述から分かります。

 ここでおかしなことに気づきます。頼朝ってこんなにマザコンだったの? ということです。こんなに母親を慕っていたのかと疑問に感じます。そして、頼朝の性格からしてそんなはずはない、と感じます。

岩手の奥深い山の中で山狩りなどできるわけがない

 外国映画の捜索場面を見て管理人がいつも疑問に思うことは、山の中で捜索対象を見つけるのは捜索犬でも使わないと無理! ということです。

 山に詳しい方なら当たり前のことでしょうが、管理人の経験を書きます。

 ボリビアの(憲法上の首都)スクレの近郊にある遺跡まで登る機会がありました。ところが、沢を間違えたため、目的地にはたどり着けません。それなら、尾根に出てそこから目的の沢まで横断すればよいのでは、と考えますが、これができないのです。沢から尾根に登るのは地形的に不可能。絶対にできない地形でした。

 このため、元の出発地点まで戻ることになりました。戻ると言っても、ボリビアのこと。標高は3000m程度です。苦労して登った標高3000mの沢を降りて、再び登り直す気持ちが分かりますか。このように、沢を一つ間違えると遭難してしまう可能性があります。沢から尾根に登れるとは限らないのです

 平泉は岩手の中でも開けた場所ですが、少し山に入ると皆同じ。その山深い中に入り込んだ人間を見つけ出すことなどできません。猟犬などを使わない限り、人間の力では無理です。

 義経が自害したと伝えられているのは現在、義経堂のある場所です。確かに周囲には逃げ込める山はありません。むしろ、周囲の低地から突出した高台に位置しており、周囲を取り囲まれたらひとたまりもありません。

 つまり、義経がもしここで自刃したとしたら、義経という人物は相当な脳天気で、軍事上の基本も知らない愚将だったということです。でも、そんなはずがないことは、義経の軍功が物語っています。

 この歴史解釈は明らかに間違っている、と言えそうです。

死んだはずの義経が蜂起、と「吾妻鏡」に書かれている・・らしい

 中津文彦氏の著書『義経はどこへ消えた?』3) のp169 に、「『吾妻鏡』の文治5年12月23日の項に、次のような記述がある。」として、吾妻鏡の当該条を引用しています。

奥州の飛脚去夜参じ、申して云はく。予州並びに木曾左典の子息、および秀衡入道が男等の者ありで、おのおの同心合力せしめ、鎌倉に発せんと擬するの由、謳歌の説ありと云々

『吾妻鏡』文治五年十二月二十三日条

 予州=義経、木曾左典=木曾義仲です。ここで注意しなければならないのが吾妻鏡にたびたび登場する「云々」という記述です。

 「云々」とは、「~したとさ」とか、「~ためなんだそうだ」とか、伝聞に基づき記載したもので、この真偽について執筆者は文責は負いませんよ、という書き方です。聞いたことを記録にとどめただけです、と著者自身が主張していることになります。

 そもそも吾妻鏡を書くのであれば、全てが伝聞のはずです。その時代に生まれていない人が書いているのですから、伝聞や書物に書かれている情報が全てということです。

 では、吾妻鏡では、「云々」 という単語は、何カ所で使われているのでしょうか。答えは、835カ所です。これが多いと考えるのか少ないと考えるのかは、研究者次第でしょう。吾妻鏡に書かれているからと自説の根拠に吾妻鏡を引用する研究者は、このような問題には決して触れません。「云々」と書かれている部分の記述であっても、自分の主張に都合の悪いことは触れない!

 吾妻鏡の執筆者が文責を放棄しているこのような記述にもかかわらず、「吾妻鏡に書かれているから信頼が置ける」と主張したいようです。

 ちなみに、吾妻鏡に「義経」という単語は、ちょうど100カ所で使われています。

 義経が自害したのが文治5年閏4月30日なので、・・・・

 いつものように、執筆途中でのアップになります。かなりモチベーションが低下しているため、この書きかけバージョンでアップします。この記事は1年前に書いたものなのですが、氷付けになっていました。腰を痛めたりして体調不良のため、気力が途切れてしまいました。

 義経=チンギス・ハン説

 義経が大陸に渡りチンギス・ハンになった、というおバカな説がありますが、管理人は、この説には納得できません。

 義経は、大陸に渡る途中、船が沈没して水死した。これが真実だと考えています(www)。

 伝説を作る人たちは、大海を渡るリスクをあまりにも軽視しているように感じます。

 義経が大陸に渡ったと主張したいのであれば、その方法を明らかにするのが筋でしょう。どこの港からどの港に渡ったのでしょうか。当時、そのような航路があったのでしょうか。それは、どうやって証明するのでしょうか。

小谷部全一郎の成吉思汗は源義経也や末松謙澄の「義経再興記」はこの部分は完全に無視しています。北海道の対岸に位置する大陸に義経の痕跡がある、という所から推論を展開しています。

 このあたりが誰も調べていない歴史の空白ゾーンです。歴史学者は海についての話題がとても苦手なようです。誰も解明しようとはしません。

 奥州平泉は北方貿易を盛んに行っていました。北海道から輸入した”鳥の羽”を朝廷に献上していたのですから、貿易が盛んだったことは立証されています。しかし、貿易の相手も、交流ルートも分からない。どの港からどの港へ運んだのかも分からない。史料がないからです。史料がないと何も語ることができないというのが現代歴史学の弱点です。しかも、そのことを国民は誰も知りません。

 現在の歴史の通説とされていることに対し、歴史学者は「史料で確認された点」と「点」をつなぐ根拠を示していないし、それについての学術的根拠も公表していません。

 「義経は衣川で自刃したってさ」、という吾妻鏡の記述を根拠に義経衣川自刃説を書いては見たものの、それが実証主義的検証によるものでないことは、研究者自身が一番知っていることでしょう。たぶん、忸怩たる思いで通説に従っているのだと思います。

 つまり、義経北行伝説はあり得るということです。そして、その可能性が大きいことを歴史学者は知っているのです。圧倒的な数の伝承が伝わっているからです。立場上、そうは言わないけれど。

 義経が北海道に渡ったり、大陸に渡ったなどの話は、江戸時代の作り話、という説を唱えている人もいますが、それこそ根拠のないホラ話です。

 義経を蝦夷地に逃れさせるという考え方は、当時としてはごく当たり前だったと考えられます。

「中尊寺建立供養願文」に書かれていることとは

 「中尊寺建立供養願文」は、天治3年(大治元・1126)の中尊寺落慶にあたって初代清衡が供養した願文です。落慶式典でこの願文が清衡によって読み上げられたとされています。

 ということは、この願文に書かれている内容に嘘はない、とも解釈できます。それは仏教の関係からの推論ではなく、出席者を前にして明らかな嘘だと分かるような内容が書かれているはずがない、という見立てです。

 願文の中で目を引くのが、「粛慎(しゅくしん)、挹婁(ゆうろう)」の部分。

中尊寺建立供養願文(一部)

 「私には、植物の葉が太陽に向かって伸びるように付き従う民族がいる。粛慎(しゅくしん)や挹婁(ゆうろう)である。」つまり、サハリンや大陸の人を思うがままに動かせる、と述べています。

 朝廷を念頭に、北方の交易相手について虚勢を張って書かれたとする見方もありますが、式典の出席者は何の疑問も抱かずに聞いていたことは明らかでしょう。つまり、北方の交易相手とはかなり濃密な関係にあったということです。この願文に書かれていることは、朝廷向けの嘘・はったりではなく、奥州平泉では、あまりにも当たり前のことだったと推測できます。

 実際、それを証明する証拠があります。奥州藤原氏から朝廷に献上された大鷲の羽根です。大鷲は中国北東部、ロシア東部の大陸に暮らす鳥。大鷲の羽根を中国東北部の人たちと交易していたのがアイヌの人たち。清衡はアイヌの人たちから大鷲の羽根を手に入れ、朝廷に献上していました。

大鷲の羽根は平安時代に珍重されました。

オオワシ, AC photo
オオワシ, AC photo
矢羽根, AC photo

 

朝廷武官束帯 箭(矢):大鷲(大鳥)

 ここから明らかになるのが奥州平泉と北海道、そして、大陸との交易ルートの存在です。

 「中尊寺建立供養願文(1126年)」は義経が自刃したとされる1189年の60年以上前に書かれたもの。義経が平泉で過ごしていた時期もこの交易は盛んで、義経自身も北海道や大陸について身近な印象を持っていたと考えられます。

 奥州藤原氏にとって、この交易ルートを使えば、義経を頼朝の追求が及ばない蝦夷地に逃がすことなど簡単なことだったのです。そして、当時の人々は、それを当たり前のこととして認識していました。

 義経の北行伝説があるのは、判官贔屓で後から作られた創作なのではなく、むしろ、当時としてはあまりにも当たり前のことだった。

 京を逃れ壇ノ浦で亡くなった安徳天皇。京都御所から壇ノ浦までの直線距離は、457Kmです。一方、平泉の柳之御所から北海道松前湊までは283Kmに過ぎません。

 安徳天皇を死に追いやった義経は、天皇の死地である壇ノ浦と京都との距離を実感しています。このため、義経にとって蝦夷地は決して遠い最果ての地ではなかったと考えられます。

 平泉で過ごした幼少期に聞いた「蝦夷地」。それは、江戸時代の人たちが考える最果ての地ではなく、もっと身近な存在と義経は感じていたと思います。

 

出典:

1) 「ダークサイドミステリー」、NHK BSプレミアム

2) 「齋忌の世界-その機構と変容-」、岡田 重精、1989、東北大学

3) 「北行伝説に迫る 義経はどこへ消えた?」、中津文彦、PHP研究所、1996