なぜ、神功皇后(じんぐうこうごう)は九州に行ったのか、いや、行ったことにしたのか。神功皇后にまつわる話は、ちょっと無理があると感じるのは管理人だけではないでしょう。
日本書紀編纂者は、中国の書物に精通していました。当然、魏志倭人伝など常識として知っていたと考えられます。このことから、「神功皇后=卑弥呼」として比定したのだろうと推測している人がいますが、それは、感想文に過ぎません。根拠は何?
神武天皇の即位を計算で導き出した日本書紀編纂スタッフは、はたと困ります。中国の歴史書に書かれている『卑弥呼』をどうする? という難問です。
ここに、当時の編纂者たちの歴史認識が登場するのです。魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は九州にいたと。
なぜ、日本書紀に仲哀天皇の后である神功皇后が登場し大活躍をする場面が多く描かれているのか。それは、持統天皇との関係があるのでしょう。
本記事では当該年代の西暦はすべてグレゴリオ暦で表示しています。このため、当時の年代をユリウス暦で表示しているWikipediaの記事・日付けとは違いがあることに注意が必要です。まあ、ほぼ同じですが。古代の日付けを扱うのにユリウス日は便利ですが、誰も使わないるユリウス暦で表示する意味が管理人には理解できません。グレゴリオ暦換算で表示する方が、管理人には理解しやすい。管理人のこだわりです。
本当に日本書紀は外国向けに書かれたものなのか
日本書紀は外国向けに漢文で書かれた、というのが定説のようです。でも、これっておかしくないですか。この定説は本末転倒なのです。
日本書紀にも古事記にもたくさんの和歌が収録されています。和歌は元々は中国の漢詩に起源を発するようですが、和歌は日本独自の発展をします。
外国向けに作った書籍ならば、和歌を収録するのはおかしいことになります。何がおかしいか?
たとえば、「法隆寺」という単語。和歌として語数を数えると「ほ、う、りゅ、う、じ」の5音ですよね。ところが日本以外のほとんどすべての国では「ほう、りゅう、じ」と、3音とカウントします。これがチャンクと言われる一塊の語の概念です。今話題のChatGPTはこのチャンクを「トークン」という単位として捉えて、推測作業の基本単位としているようです。
単語の発音語数が日本と外国で全く異なるのに、日本書紀に和歌を掲載しても外国人には理解できないことになります。もちろん、漢文表記なので書かれている文字列は理解できても、その意味が分からない。外国人にとって、日本語のリズムが分からないからです。
つまり、外国向けに書いた書籍であるのなら、和歌など掲載してはダメだと言うことです。そんなことは当時の人は当たり前のように理解していた。ではなぜ、和歌を収録したのか。
ここに大きな落とし穴があるようです。「日本書紀の前半部分はデタラメの中国語で書かれている」。後半部分は、中国からの渡来人が編纂に加わったようで、文法的には正しい中国語のようですが、前半部分はデタラメの中国語の文章になっている。漢字を使った日本文と言うことでしょうか。
つまり、編纂目的が外国向けだという仮説は、これで棄却されます。最終編纂者は前半部分の文法上の誤りを修正できたのにしなかった。なぜか? 日本書紀は外国向けに編纂されたものではないからです。だから、文法上の誤りがあっても校正はしなかった。このように文法的におかしな書物が外国向けに編纂された筈がありません。
更に、前述したように、和歌を多数収録していることで、外国向けではないことは明らかです。
もっと言うならば、完成した「日本書紀」をいつ中国に献上したのか? その記録はあるのか?
多分そんな記録はない。ネット上で見つかる日本書紀についての記事は、わずか50字程度の情報を手を変え品を変え記事にしているだけで、中身は皆同じです。多分、300年後くらいの史料を引っ張り出して辻褄を合わせようと考えるのでしょうが、そのような研究手法には同意できません。
「日本書紀編纂」の目的設定が定説とは違うのではないかと思います。
日本書紀の作り方
日本書紀はどのように作られたのか、その編纂手法を考えてみたいと思います。こんなことをやる人は皆無でしょう。
西暦720(養老4)年5月に、日本書紀編纂の責任者であった天武天皇の皇子舎人(とねり)親王が完成した「日本書紀」を天皇に提出します。その天皇とは誰?
715年10月7日(霊亀元年9月2日)、第43代元明天皇が譲位し、元正天皇(第44代)が即位します。舎人親王が完成した日本書紀を上奏したのは元正天皇です。彼女は西暦680年生まれなので、日本書紀上奏当時、40歳位の年齢です。舎人親王からすれば、日本書紀編纂を命じた亡き父、天武天皇の息子である私が、4歳も年下のこんな小娘(おばさん)になぜ上奏するのか、という気持も沸いたと思います。
記紀の編纂を命じた天武天皇は第40代なので、日本書紀の完成までに4代天皇が変わったということです。
この時、舎人は何歳だったのでしょうか。答えは、44歳です。天武天皇崩御(686年10月4日)から数えると、34年の歳月が流れています。と言うことは、舎人は、天武天皇が崩御したとき10歳だったと言うことになります。
さて、日本書紀の編纂開始はいつなのでしょうか。実はこれに関する史料がなく、日本書紀の編纂開始時期は不明、とするのが常識ある歴史学者の見解のようです。何しろ、史料がないので仕方ありません。
一節には、681年(天武天皇10年)、天武天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという『日本書紀』の記述から、この時を『日本書紀』編纂開始と推測している人もいるようですが、そんなことは『日本書紀』のどこにも書かれていないので、この説は違うと思います。
管理人は、日本書紀の編纂は3~5年程度の期間でできあがったと考えています。速く作らないと担当者が死んでしまうからです。日本書紀の編纂開始を681年とするのなら、編纂期間中に天皇が4代も変わる時代です。何十年もかけて編纂したという考えには賛同できません。当時の皇子たちの多くが30歳に未たずに亡くなっている状況を見れば、編纂を急ぐ理由を理解できるでしょう。
その根拠として挙げられるのが、日本書紀に続いて編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』の編纂に要した年数です。この編纂にかかったのはわずか3年(794-797年)です。
『日本書紀』に次いで編修された勅撰国史。桓武天皇の延暦13年(794)から16年(797)にかけて、3回に分け、全40巻が完成しました。撰者は藤原継縄(ふじわらのつぐただ)・菅野真道(すがののまみち)ほか。『日本書紀』のあとを受けて、文武天皇即位の年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)12月まで、9代95年間の国の歴史が漢文で記されています。編年体の簡潔な記述のほか、恵美押勝(えみのおしかつ 藤原仲麻呂とも。764年に反乱を起こして処刑)や道鏡、鑑真などの伝記も記載されています。
国立公文書館、『続日本紀』
日本書紀と続日本紀とでは扱う年代の長さが全く異なるから、日本書紀を短期間で編纂するのは難しいという声が聞こえてきそうですが、それは議論が逆さまです。編纂者の寿命が短いのですから、短期間で編纂するというのが編纂プロジェクトに与えられた条件です。プロジェクトを成功に導くために、編纂者たちは様々な工夫をしたことでしょう。扱う歴史が長いから編纂に時間がかかる、という考え方は、実際にプロジェクトを運営したことのない人の発想でしょう。発想が逆なのです。速く作らないと担当者が死んで作業が振り出しに戻る恐れがあるのなら、それを回避するためにどうするか。このように発想するのが基本です。
編纂スタッフで知識のある人は当然、それなりのお年の方です。その方がいつ亡くなられるか分からない。皇子たちは30歳にならずに死んでいく時代です。このため、可能な限り短期間で編纂作業を終わらせる必要があります。プロジェクトマネージャーの腕の見せ所です。
編纂プロジェクト実施に当たり、編纂担当者の死去が最もハイリスクな事象であると理解していたと思います。そして、そのリスクは極めて高い確率でプロジェクトに襲いかかります。
人がいつ亡くなるかは誰にも予測できない。可能な対応は、プロジェクトをできるだけ短期間で完了させることです。しかし、それだけではありません。
あなたが巨大プロジェクトの責任者だったとします。メインの知識のある有能な5名のスタッフは全員80歳以上。残りスタッフは大学を出たばかりの若者100人。
こんなプロジェクトを任せられたら、あなたならどうしますか。責任者を辞めるという選択肢はありません。プロジェクトの工期は特に定められていませんが、プロジェクト最高責任者であるなら、最大でも5年、できれば、3年以内にプロジェクトの大部分を完成させたいと考えるはずです。
そのためにはどうすべきか考えるでしょう。できることは、プロジェクトをブロック分けし、ブロックの責任者が亡くなった場合でも、プロジェクト全体に及ぼす影響を最小限に止める。つまり、責任者死亡の影響はそのブロックの遅延だけに留める、という方式です。
日本書紀の場合、天地開闢から神武天皇、そして、歴代の天皇、最後は持統天皇までの歴史を紡いでいく作業です。
まず、既存の文献で確認することができる史料を集めて分析します。しかし、文献に残っているのは第15代応神天皇までで、それより古い情報は見つかりません。もし見つかったとしても、そこに書かれている年代が分からない。
日本最初の正史を編纂するに当たり最も重視されたのがそこに書かれる歴史の信憑性・信頼性でしょう。史料がないので分かりません、では正史を書くことができません。そこで、応神天皇より前の歴史は、数学を用いて産出するという手法を採用します。この計算には「暦」が使われます。
これにより、史料にとぼしい天地開闢から仲哀天皇(第14代)までと、史料が比較的豊富にある応神天皇(第15代)から持統天皇(第41代)までに大きく二つに分けることとします。その後で、更に、小さなブロックに分けていきます。
なお、応神天皇より前の歴史が全く史料価値がないとしているのは、このテーマでは誰もが知っている「津田左右吉」です。管理人が思いつきで書いているわけではありません。 「津田左右吉」って誰? 自分で調べてみましょう。
次に、分岐点となる仲哀天皇の部分を根拠づけるために、仲哀天皇の皇后である神功皇后についてもページを割いて記載することにします。
日本書紀をこの二つに分割することで、編纂方針も大きく変わります。前者は数学を用いて外国(実際には中国と韓国)の歴史書と整合性を取ることが重点事項になります。その基本は『暦』です。後者は、国内に残る史料を使っての作業になります。
さて、問題となるのは前半部分です。
断片的に残る史料、言い伝えをいくら分析しても、それがいつの時代のことなのかが全く分かりません。そこで、重要となるのが『暦』です。では、当時使われていた『暦』は何だったのでしょうか。
允恭天皇(第19代)の末期(450年頃か?)に南宋から『元嘉暦(げんかれき)』が伝わります(出典1 p.5)。また、Wikipediaによれば、元嘉暦が日本に伝わったのは、日本書紀には554年と書かれてあるそうです。しかし、この記述はガセネタで、正確には、「欽明天皇十四年(553)六月、百済に医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本の送付を依頼 (日本書紀巻19)」のようです。
ここで重要なのは、上のピンクでハイライトした部分の記述は、日本書紀で初めて『暦』という文字が出現したことを示しているだけであり、いつから暦が使われたかを示す文章ではないことです。
元嘉暦が日本にいつ伝わったのかという単純な疑問に対し、100年も違う答えがあるのですから、どちらかが明らかに間違っています。しかし、いつから暦を使い始めたかについての記録は存在しないようです。
【允恭天皇】
允恭天皇(在位:允恭天皇元年12月(413年)-允恭天皇42年1月14日(453年)
ここで、日本書紀編纂当時使われていた元嘉暦とは何かを見ていくことにします。
【元嘉暦(げんかれき)】
中国,南朝宋の何承天が元嘉 20 (443) 年に作成した暦法。定朔望の採用を主張したが,反対にあって実行されなかった。しかし同 22年以後梁初までの暦はこれによって計算された。日本に伝えられた最古の暦法として知られる。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元嘉暦」
暦を語らず日本書紀を語るなかれ
ここに、歴史学者が陥る落とし穴があります。日本の暦の公式採用の記述を調べても余り意味がないのです。当時は百済などから先進的な文化を輸入していた日本。つまり、百済で使われていた暦が日本に伝わっていたのは明らかです。○○博士が日本に伝えたわけではなく、有能な渡来人なら普通に使っていた暦なのでしょう。暦法に関わる専門家のレベルではなく、「暦の使用」のレベルの議論です。誰でもスマホを作れなくても使うことはできます。
過去の史料に残る日付けを記録するときに使われた暦が何なのかが分かると、日本書紀編纂者は、過去の史料に記された断片的な出来事を時系列で並べ替えることが容易になります。
当時、多くの渡来人が日本にやってきて、重用されていました。渡来人が使っていたのは「元嘉暦」だったと推測されます。その根拠は、本場の中国では、元嘉暦は(南朝の)宋で445年(元嘉22)から65年間用いられていたに過ぎない短命の『暦』なのですが、百済では、その滅亡の661年まで「元嘉暦」が使われていたのです。
ここで面白いことを紹介しましょう。
仲哀天皇が崩御された日付けについての謎です。
この日付けが、古事記と日本書紀とでは異なっているのです。
なぜ、同時期に編纂された古事記と日本書紀で天皇の崩御の日付けに違いがあるのでしょうか。自分で考えてみてください。
管理人は、日本書紀の日付けは、計算で算出した日付けであり、古事記は史料に書かれていた日付そのものではないかと推測しています。日本書紀編纂者は、古事記編纂者が使った原典を当然知っていたわけですが、それにも関わらず、日付けを動かす必要が発生します。
古事記と日本書紀とでは歴代天皇の崩御の日付けが異なることを知り、何が違うのかを調べてみたのが下のグラフです。
このグラフをご覧になった方で、「あっ!」と思った人がいればうれしい。
こんなグラフを見たことのある人は皆無だと思います。これを作るのはめんどくさいからです。
さて、これは何を意味しているのでしょうか? このようなグラフを見ると、管理人はY切片の意味を考えてしまいます。Y切片こそ、編纂者たちが加えた修正そのものが表示されているのではないかと思います。つまり、古事記0日の時に、日本書紀では何日をユリウス日で示しているかということです。
なかなか記事タイトルにある邪馬台国の話しまで進みません。この辺で、一度記事をアップしたいと思います。管理人の気力が続けば、続きを書きます。気力が沸かなければこれでおしまいです。
実は、このグラフは、以前アップした邪馬台国の記事を書くときに作成したものなのですが、グラフの意味が理解できない(笑)。執筆当時のレベルに戻す作業と、膨大な分析作業が必要になります。これが、このレベルでアップした理由です。
この後、元嘉暦と儀鳳暦。儀鳳暦の周数1360年と卑弥呼の比定と続くのですが・・・。
続きを書ける日が来ればよいのですが、管理人は移り気なので、他に関心のあるテーマがあるとそれにのめり込んでしまいます。
出典:
1) 「暦で読み解く古代天皇の謎」、大平裕、PHP文庫、2015