邪馬台国の場所は日本書紀に書かれている(その2)

 前回の記事では、唐突に、「神武天皇の即位を計算で導き出した日本書紀編纂スタッフは、はたと困ります。」という記述があります。この計算の話しを説明し出すと文章がとてもわかりにくくなるため、あえて、何の説明もせずにこのような記述にしました。

 今回は、この計算の意味を考えていきたいと思います。

歴代天皇

 下に示す表は、日本書紀に関係する、初代の神武天皇から、完成した日本書紀を受け取った第44代元正天皇までを表示したものです。

 この表を見て最初に思うのは、どの天皇についての記述が史料に基づいているのか、また、史料が本当に存在していたのか、ということです。そして、それは、「暦」が関わってきます。

 仮に、下のような内容が記された史料があったとします。

 ○○がxxxをしました。
 ○○が亡くなりました。
 xxxxが誕生しました。
 xxが亡くなりました。

 これはいつの時代のことを書いているのでしょうか。この記述は時系列で順に書かれているのでしょうか。もし、こんな史料が存在したとしても、日本書紀の編纂には使えないことが分かります。日付けが入っていない史料は使えません。

 では、日本では、いつから暦が使われたのでしょうか。などと書くと間違った方向に進みそうです。

 ここで重要なのは、暦が正式に日本で採用された年ではなく、誰が日付の入った記録を残したのかということです。その答えは、渡来人であることは間違いないでしょう。そして、その渡来人とは、百済から倭国に招かれた人たちです。暦を知らない倭国の人たちが日付の入った記録を残せるはずもありません。逆に、暦を知っている百済人なら、歴史にまつわる記録を残そうとする場合、必ず日付けを記入するでしょう。中国から使節が持ち帰ったと言いたい人もいるようですが、暦博士が一緒に来なければ、持ち帰った暦は、ただのお飾りです。

 倭国と百済との関係は古く、372年(仁徳天皇59年)ころから両国の交流が始まっていたようです。

 ここで、『元嘉暦』という暦が登場します。『元嘉暦』は中国南朝の宋・斉・梁の諸王朝で445年~509年までの65年間使われていた暦です。この暦が百済にいつもたらされたかは定かではないのですが、宋で使われ出してすぐに百済でも使われたと考えられます。おそくとも500年代初頭と推測されています。1971年に偶然発掘された百済第25代武寧王(在位501-523)と王妃の墓とされる「武寧王墓」には『元嘉暦』による「壬辰年作(512年)」の銘が見つかっています。

 そしてこの暦は、660年7月18日(斉明天皇6年6月6日)に百済が滅亡するまで使われました。本場中国では65年しか使われなかった元嘉暦でしたが、百済では最後まで使われていたのです。

 このように見ていくと、倭国に残る日付けのある古文書は、元嘉暦で書かれたものであり、たぶん、それ以外の史料は存在しないと考えられます。倭国の歴史が書かれた史料が存在するとしたら、それは、どんなに遡っても500年以降に書かれたものだろうと想像できます。

 次に、日本書紀ではどう書かれているかを確認します。

 「暦」という言葉が最初に登場するのが、553年7月(欽明天皇14年6月)、百済に医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本の送付を依頼の記述(日本書紀巻19)。さらに、554年3月(欽明天皇15年2月)、求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日の記述(日本書紀巻19)。 倭国の暦は、百済から渡来した暦博士が作っていた。そして、使われた暦は「元嘉暦」だと考えられます。

ここで日本書紀の中で初めて『暦』という言葉が使われます。 

 この他にも、

 602年11月(推古天皇10年10月)、百済の僧観勒が来日、暦本などを献上。陽胡玉陳が暦法を、大友村主高聡が天文・遁甲を習う(日本書紀巻22)。

 604年2月9日 (推古12年正月)、百済から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、日本最初の暦が作られ、正月、暦の使用開始(日本書紀巻19、政事要略)。  

 といった記述もあります。       

 ただ、上で書いたように、この日本書紀の記述は、倭国に残る古文書については何も説明していません。この記述はオフィシャルベースの出来事に過ぎません。また、暦を使うのではなく、作ることを目的とした記録です。

 当然、これよりも古い時代に書かれた古文書が存在するでしょう。百済からの帰化人や彼らから知識を学んだ倭国人によって書かれた古文書があったと考えられます。しかし、それは、どんなに遡っても500年代以降ということです。これより前の記録は、倭国には存在しないと考えられます。

 次に、日本書紀には、681年(天武天皇10年)、天武天皇が川島皇子(かわしまのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)ら12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという記述があります。

 この「帝紀」と「上古の諸事」に収録された記録とは、500年~680年頃の倭国・日本の歴史だったのではないかと推測できそうです。

 上の年表で確認すると、第26代継体天皇(在位:507 - 531)以降の天皇であれば、何とか日付の入った記録が存在したのではないかと思われます。別の言い方をすれば、第25代天皇以前については年代を示す史料は、そもそも存在しない、ということです。

 ただし、歴代の天皇の名前や逸話などが伝承として伝わっていたでしょう。それがいつの時代なのかを考え、パズルのように当てはめていく作業が、日本書紀編纂者に求められることになります。

 では、500年以前の日付の入った記録は絶対存在しないのか、と問われれば、倭国で使われていたと考えられる原始的な暦の存在が浮かび上がってきます。

 

なぜ、神功皇后が日本書紀で大きく取り上げられるのか

 日本書紀全30巻のうち、卷第九には神功皇后のことが書かれています。1巻すべてを使って神功皇后の業績を説明しています。

  •     神功皇后の熊襲征伐
  •     新羅出兵
  •     麛坂王(かごさかのみこ)、忍熊王の策謀(おしくまのみこ)
  •     誉田別皇子(ほむたわけのみこ)の立太子
  •     百済、新羅の朝貢
  •     新羅再征

 

  そもそも、日本書紀は、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述している編年体の歴史書です。なぜ、神功皇后だけが例外として扱われているのでしょうか。

 これは、日本書紀編纂者の立場に立てば理解できるかも知れません。

 日本書紀編纂者は、史料が存在しない500年代以前の倭国の歴史をどう描くかに苦慮することになります。

 そこで、中国の歴史書に書かれている倭国についての記述と、伝承による記録とを照合させる。そこで出てくるのが、3世紀頃の倭国についての記録である『魏志倭人伝』でしょう。

 女王卑弥呼って誰だ? 倭国の伝承にはこんな名前の女王はいません。いるのは、神功皇后くらいです。

 卑弥呼がいたのは3世紀。亡くなったのは248年頃とされている。じゃあ、ここに神功皇后を当てはめ、残りは適当にはめていこう。神功皇后を卑弥呼と比定することで、そこを起点に、それより古い時代、新しい時代の年表に歴代天皇を配置していくことが可能になります。

 もう一度、年表を見ると、第14代仲哀天皇(192-200)と第15代応神天皇(270-310)の間に、天皇のいない空白の70年が存在します。この空白は何なのでしょうか。

 日本書紀編纂者にとってこの時代を描く唯一のよりどころは280年~290年代に書かれたとされる『魏志倭人伝』しかありません。これより少し後の時代は『百済三書』が使える。しかし、現代人から見れば、『百済三書』は現存していないため、結局は『百済三書』を引用している唯一の史料『日本書紀』に書かれている内容に頼ることになる。まさに堂々巡りです。

『百済三書』

 そもそも、『百済三書』は、いつ成立したのかも不明で、日本書紀が引用していることで、存在しただろうと推測される幻の文献です。

 

『百済三書(くだらさんしょ)』

百済三書とは,『日本書紀』にのみ引用された,百済の歴史を記録した歴史書で,『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の総称である。

 そこに書かれている内容が正しいかどうかも分かりません。ただ、正しい記述の可能性があるとしたら、それは、倭国と百済の交流開始以降のことでしょう。これは、372年以降であろうと推測されています。これが第16代応神天皇(313-399)の御代に当たります。つまり、第15代以前の天皇については、『百済三書』にも書かれていないはずです。

 Wikipediaには、『百済三書』について、「『日本書紀』に引用されている逸文からわかる範囲では、近肖古王から威徳王の15代にわたる200年近い歴史の記録が記されている。」とあります。近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 – 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)。威徳王(いとくおう、525年? – 598年12月)は、百済の第27代の王(在位:554年 – 598年)。

 つまり、『百済三書』は、近肖古王の346年から598年までの歴史が書かれたもののようです。

 魏志倭人伝には、「卑弥呼の死後、男の王が立つが、国が混乱したため、卑弥呼の宗女「壹與(台与、いよ、とよ)」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した」とある。卑弥呼を神功皇后と比定しても、台与の治世の部分を省略することはできない。そんなことをすれば、中国から指摘され、日本書紀の信憑性が疑われることになる。このため、70年の空白期間を設けることになる。でも、それはおかしい。この70年の意味が違うのではないか。これについては後ほど考えます。

 神功皇后は、170年生まれで、亡くなったのは269年6月3日。99歳まで生きたことになります。仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる。

 第15代仲哀天皇と第16代応神天皇との間に70年間もの天皇不在の時期がある。その時期は、神功皇后が摂政として君臨していた。

 応神天皇が生まれたのは、201年1月5日(仲哀天皇9年12月14日)で、父、仲哀天皇崩御の翌年です。そして、亡くなったのは310年4月1日(応神天皇41年2月15日)です。死亡時年齢は、110歳です。

 そして、神功皇后が亡くなった翌年、270年に息子の応神天皇が即位します。即位時の年齢は69歳。これもとても奇妙です。母親が長生きでも、息子の方が先に死んでしまいそうです。

 常識的に考えて、神功皇后が70年間も摂政をしていた筈がありません。もし、これが70年ではなく17年間だったとしたらどうでしょう。息子が17歳になっています。天皇に即位してもやっていけそうです。では、この17年という年数はどこから来るのか、その根拠とは。これが『4倍年暦』の可能性を示唆しているように思います。これについても、後ほど考えてみましょう。ここでは、暦が違うということだけ指摘しておきます。

 このあり得ない年代配置に編纂者の苦労がうかがえます。日本書紀の編者は、偽書を作るために仕事をしていた分けではありません。天皇の命により、日本の歴史書を作ろうとしていたのです。そして、編纂者としては、「何ら矛盾していない」と考え、完成した日本書紀を天皇に上奏したのでしょう。

『三国史記』

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

 日本書紀よりも425年後に書かれた歴史書ですが、中国の文献を多数引用していることから、信憑性が高いとされているようです。別の見方をすれば、朝鮮半島についてはこれしか文献が残っていないので、この内容を疑うと研究が進まない、という実情もあるでしょう。中国の文献を多数引用しているので、他の文献とのクロスチェックもできません。

 『三国史記』と『日本書紀』と読み比べると、『三国史記』「百済本紀」の392年、辰斯王についての記述は、日本書紀の応神天皇3年の記述と同一と見なされることから、応神天皇3年が392年であることが分かります。2)

 ところが、現在使われている和暦換算では、応神天皇3年は、西暦272年です。日本書紀の年代の方が120年古い年代を示しています。120年は、十二支で10周分、十干十二支60年の2巡分です。

 やはり、第15代応神天皇で年代の調整が行われたと考えられます。なぜ、神功皇后は死ぬまで息子を天皇に即位させなかったのかがこれで分かります。いや、ここには何の矛盾もない。使っている暦が変わったのです。

 あなたの体重は? と聞いたら、100ですとの回答。相手は100ポンドのつもりで100と答えているのですが、聞いた方は、100Kgという固定観念から逃れることができない。このため、相手の回答の意味が全く理解できないのです。

 そもそもの原因は、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼という女王が倭国の歴史の中で登場しなかったことにあります。そこで、倭国の歴史に名が残る神功皇后を卑弥呼と比定することになります。しかし、卑弥呼が死んだのは、284年頃のこと。この時代に神功皇后が活躍していたとすれば、息子の応神天皇の即位と辻褄が合わなくなります。応神天皇が392年に生きていたとするならば、神功皇后(卑弥呼)の時代と合いません。

 そこで、60年周期で繰り返される干支(十干十二支)の2巡分の120年、時代を古くすることで辻褄を合わせることになります。

 ここで重要なことは、なぜ、神功皇后を卑弥呼と比定したのかということです。それは、中国の歴史書に対する絶対的な信服。滅亡後に倭国に亡命した百済の貴族たちの考え方だったのでしょう。

 神功皇后を卑弥呼と比定した日本書紀編纂者たちは、神功皇后に九州に行ってもらわないと困ることになります。

 神功皇后の夫、仲哀天皇が崩御されたのが200年2月6日です。仲哀天皇が亡くなったとき、神功皇后は何歳だったのでしょうか。応神皇后は169年の生まれなので、計算上は31歳となります。仲哀天皇崩御時に妊娠していたことにしなければ、応神天皇につながりません。そして、仲哀天皇が福岡で崩御したとするならば、妊娠しなければならない神功皇后も九州に同行したことにする必要があります。

 神功皇后が当時九州にいたとなれば、魏志倭人伝との整合性はバッチリです。

 神功皇后が産んだ応神天皇は201年1月5日に誕生しました。父親が亡くなった日から数えて334日目に生まれました。  

 WHO(世界保健機関)では妊娠期間は280日±15日と定義しています。

 このことは、応神天皇の父親は仲哀天皇ではないことを示しています。いや、そんなことを言ってはいけません。当時は魔法の石があり、出産を2ヶ月程度遅らせることなど簡単だったのです。知らないのは無知な現代人だけです。

 ただし、お腹の中で2ヶ月もの間、人より余計に大きく育った赤ちゃんを母親が自然分娩で出産できたかどうかが疑問です。通常は、母親が死んでしまいそうです。

 体重は6kg、身長が60cmの巨大な赤ちゃん。こんな子、本当に産めるの?

 そもそも論を書けば、日本書紀におけるこの時期の天皇家の歴史年代はハチャメチャなので、応神天皇の本当の父親はだれかなど、滑稽な発想でしょうね。

 『三国史記』は1145年完成した歴史書です。百済の滅亡(660年)、白村江の戦い(663年)などもあり、倭国が『三国史記』の元本となった新羅の歴史書を入手していたとは考えられません。やはり、倭国人の歴史認識は、百済人の歴史認識そのものだったと思います。

 ここで奇妙なことに気づきます。日本書紀編纂者たちは、なぜ、こんな無理な歴史書を作らざるを得なかったのでしょうか。

 考えられるのは、天皇家の歴史の中で、日本書紀の最後を飾る持統天皇は第41代天皇とすることが決められていたということです。41代の歴代天皇の名前を勝手に間引いたり追加したりすることはできない。かつ、歴史をできるだけ古いものにする。日本の歴史がとても古いことを中国に示す必要がある。これが編纂者に与えられた編纂の条件だったのでしょう。

 「言うは易く行なうは難し」。どこかで無理が生じます。

 第16代仁徳天皇は143歳まで生きました。それ以前も、100越えは当たり前。何ともご長寿な天皇たちです。

 しかし、編纂者たちにとって、矛盾していることは何もない。自分たちは集めた古文書に基づき編纂しただけと胸を張ったことでしょう。編纂者たちは何もねつ造していない。ましてや、上奏された『日本書紀』を読んだ天皇もおかしいとは思わない。そして、何の違和感も感じない。なぜか。

中国の史料

 大陸に残る倭国の朝貢の記録には以下のものがあります。

 ① 後漢光武帝建武中元2年1月(57年) 倭奴国による遣使奉献[光武帝即位と新年の朝貢]

 ② 後漢安帝永初元年10月(107年)  倭国王帥升等による遣使奉献[安帝即位を慶賀した遣使]

 ③ 魏朝明帝景初3年(239年)     倭女王卑弥呼、難升米等を遣わし、落陽に奉献[魏による公孫子平定直後の魏朝への初めての遣使]

 ④ 西晋武帝泰始2年(266)      倭の女王。遣使し、帯方郡にて朝見[西晋朝の始まりを祝う使節]

 この記録で驚くのが、最初の記録が西暦57年ととても古いこと。この時代、半島まで渡海できたのは、海の民、宗像氏の協力なくしては不可能です。

 邪馬台国がどこにあったのかという議論自体がピント外れです。西暦57年頃に、大和朝廷が福岡を支配下に置いていたかどうか、が重要となります。①はむやみやたらに後漢に使節を派遣したのではなく、時期を選んでピンポイントで派遣しているのです。

 このように時宜を得た朝貢が行われていたことから考えると、倭国の人たちが、暦も持たず、文字も知らなかったと考える方が無理があります。この朝貢は、倭国単独で行ったわけではなく、朝鮮半島に住む倭人や倭国に住む渡来人・帰化人の助けを借り、彼らが重要な役割を果たしたことでしょう。

 そして、時宜を得た朝貢が行われたということは、自前の渡海可能な船団を保有していたことを意味します。さらに、暦も知っていたということです。

 「魏志倭人伝」に邪馬台国について何て書いてあろうとも、1~3世紀に倭国(の誰かが)に中国に朝貢したことは事実でしょうし、それが可能だったのは、文字も暦も知っていたことを示しています。それを知っていたのが倭人である必要はありません。倭国に来た渡来人のみがそのような知識を持っていた可能性があります。 

 

天皇の崩御時年齢と記紀による違い

 日本書紀と古事記。前者は720年完成、後者は712年完成とされています。

 日本書紀は編年体で編纂されていることから、1700件以上の暦日が書かれていますが、古事記の方はわずかに13件に過ぎません。しかも、そのすべてが天皇の没年の日付けです。そして、それは干支で書かれています。

 記紀の中に崩御年令が書かれている天皇を抜き出したのが下の表です。西暦はグレゴリオ暦に統一したかったのですが、ノーチェックです。ユリウス暦が混在していると思います。違いは数日ですが。

 この表はとても興味深いことを示しています。100歳以上まで生きた天皇が多いことが目に付きますが、それは素人の視点でしょう。子供のような視点でこの表を見るのではなく、暦という視点で見れば、見え方が変わってくるはずです。

 記紀の編纂者がなぜ、それをおかしいと思わなかったのはなぜか。当然、おかしいわけです。当時、100歳を超え長生きする人はいなかったでしょう。もしいたとしても、戸籍もないのに、自分が何歳かなど分からない人も多かったと思います。でも、そのおかしな年齢を記紀の編者は記載した。なぜか。それは出典史料にそのように書かれていたからだと思われます。

 次に着目すべきは、崩御日の記紀の違いをユリウス日で示した項です。天皇の年代により、明らかに別の暦を使っていることが分かります。

 着目すべきは、応神天皇です。仲哀天皇が崩御されたときは、応神天皇は神功皇后のお腹の中です。仲哀天皇が亡くなった翌年に生まれます。

 ここで、古事記の記述をご覧下さい。仲哀天皇が亡くなったのは362年です。そして、応神天皇が亡くなったのは394年です。応神天皇は、394-362=32、つまり、応神天皇は32歳で亡くなったということです。それなのに、崩御時の年齢は130歳と書かれています。これが、『4倍年暦』を使っていた証拠なのではないか。

 『4倍年暦』とは、3ヶ月が1年という暦です。この暦では、現在の1年が4年に相当します。その暦にしたがえば、応神天皇の死亡時年齢130歳は、130÷4 ≒ 32。32歳という年齢が導き出され、上の結果と完全に一致します。(出典4) 谷崎氏はもっと詳しい分析をしています)。

 さらに、仲哀天皇から允恭天皇までは、すべて3月までに亡くなっています。『4倍年暦』では4月は存在せず、翌年になります。

 古事記の編者からすれば、没年を見れば32歳で亡くなったのは誰でも分かること。130歳と書けば、出典史料が『4倍年暦』を使って書かれたものだと読者なら当然分かるよね? という感覚だったのかも知れません。何しろ、原典に130歳と書いてあるのだから、そのまま書いたのだが、こんなことぐらい、古事記の読者なら分かって当然でしょ? 

 一部の研究者は『2倍年暦』が使われたと考えているようですが、応神天皇に関しては『4倍年暦』で説明することができます。

 (公式採用という意味ではなく)元嘉暦が利用される前の年代に書かれた古文書は、日本古来から使われてきた原始的な固有の暦で記載されているのではないか、というのが『2倍年暦』、『4倍年暦』論者の視点です。この暦は太陽暦と考えられるが、起点が不明なため、西暦換算に成功している研究者はいないようです。

 たぶん、史料によって使われている暦が違ったのではないか。史料が書かれた年代も地域も異なるのであれば、『2倍年暦』、『4倍年暦』どちらも並行して使われていたとしても不思議ではありません。

 このように見ていくと、没年が100歳を超えているから史料として価値がない、という短絡的な発想ではなく、しっかり書かれているじゃないか、という見方も必要なのでは、と感じます。

 古事記と日本書紀で天皇の没年が異なるのは、原史料にある日付けがどの暦によるものなのか、その判断が編纂担当者によって違ったということなのでしょう。古い歴史が書かれている史料をたくさん集めたけれど、元嘉暦のような統一した暦がない時代の暦をどう評価するか。

 もう一度ユリウス日の項を見ると、第41代用明天皇以降、記紀の天皇の崩御年月日の差異がほとんどなくなっていることに気づきます。「古事記」、「日本書紀」編纂者が違った解釈をする余地のない同じ暦で書かれた原典を引用したということでしょう。

 第40代天皇以前の原史料は、『2倍年暦』、『4倍年暦』、そして、百済の渡来人が残した『1倍年暦(元嘉暦)』が混在していたと考えられます。どの暦が使われたのか誰にも分からない。

 もう一つ、表をアップします。古事記と日本書紀の天皇崩御日のユリウス日差を365日で割ったものです。記紀間で何年のずれがあるかが一目で分かります。たとえば、成務天皇、仲哀天皇では162~165年なのに、次の応神天皇ではその半分の85年になっています。第19代允恭天皇では1年のずれです。ところが、次の第20代雄略天皇では10年のずれに拡大しています。

崩御年齢と在位期間

 次に崩御年齢と在位期間との関係を見ていきます。

 神武天皇から第44代元正天皇までの崩御年齢と在位期間は以下のようになっています。

 この表だけからは分かりにくいので散布図にしてみます。

 散布図にすると、以下のようにキレイに三つのグループに分かれました。この意味は何なのでしょうか。

 まず、Aグループ。崩御年齢が100歳を超えるグループです。そして在位期間も異様に長い。このグループは、『2倍年暦』(あるいは『4倍年暦』)が在位期間と崩御年齢の計算に使われたと考えられます。上で出てきた15代応神天皇はこのグループにいますね。古い天皇のグループになっています。

 Bグループは、在位期間は許容範囲なのに、崩御年齢が少し高すぎるグループです。これは、崩御年齢の算定にのみ『2倍年暦』(あるいは『4倍年暦』)が使われたのではないかと推測できます。

 最後はCグループ。たぶん、このグループでは元嘉暦を用いた原史料が使われたのでしょう。崩御年齢が高い5人の天皇がいますが、この5人は、もう一つグループ分けした方がよいかも知れません。

 ちなみに、在位期間は、44代までの平均が29.2年。100年を超える孝安天皇(101)と崇神天皇(127)を除外すると25.1年となります。決しておかしな数値ではないと思います。

 問題とされる崩御年齢は、切り分けて考えるのが正しい分析方法かと思います。そして、それには理由があるはずです。

 あなたが日本書紀編纂者なら、完成した日本書紀上奏にあたり天皇に何と説明しますか? 

 管理人なら、「倭国の歴史を過去まで遡るのは困難で、古文書が書かれた当時使われていた暦が分からないため、これを推測して年譜を作成しました。現在の儀鳳暦、あるいはそれまで使われていた元嘉暦への換算・還暦も試みましたが、古代暦の始点が不明では換算できないことが分かりました。倭国では、A、B、Cの異なる暦が使われていましたが、基本は、原史料の記述をそのまま使っています。これにより、古代の天皇の在位期間が長くなったり崩御年齢が高くなったりしていますが、これは暦が原因なので、恣意的な修正をせず、原史料そのまま記載しています。暦博士も同じご意見でした。」と説明します。天皇にご納得いただけるかどうかは分かりませんが。

 しかし、そもそも論として、紀元前のことが書かれた古文書が倭国に存在したとは到底考えられません。少なくともAグループは、神話を元に日本書紀編纂者が創作したものなのでしょう。

 では、どうやって創作したのか。その方法は? 日本書紀編纂者が作業をしていた当時使われていた儀鳳暦に依存するしか方法がありません。儀鳳暦の周数1340年を使って時代を遡るという荒技に挑戦です。

 なお、『儀鳳暦』は日本での呼び名であり、中国での名称は『麟徳暦』です。

十干十二支とは? その計算法

 日本書紀にしろ古事記にしろ、書かれている日付はすべて『十干十二支』表記です。

 十干は「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類。また、十二支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類です。これを組み合わせることで、60年周期の干支を作ることができます。

 これってとても便利。でも、どうやって計算する?

 エクセルでやれば簡単です。エクセルの日付け計算は1900年以前はできませんが、下に示す方法は、日付関数を使わないため、紀元前の計算も可能です。ただし、西暦0年は存在しないので、紀元前の計算には-1年引く必要があります。(神武天皇即位の紀元前660の計算は、-659と入力)

 エクセルファイルをアップしようかと思ったのですが、あまりにも簡単なので、式を書きます。式が入っているのは5つのセルだけです。

 これで、あなたも日本書紀などに書かれている干支と西暦の確認が簡単にできます。このシートを改変すれば、干支から該当する年を一覧表に出力することも簡単にできます。管理人はやりませんが。

 実際は、作業をするとき、紀元前もそのまま入力したいし、干支の読みも知りたいので、下のように改良しています。

 なぜ、干支が10×12=120年ではなく、60年で1巡なのかは表を見れば分かりますね。と言いたいのですが、多分分からない。「十干」と「十二支」はともに偶数なので、(上の表では)「十干」が「乙」までいくと、11年目には「甲」に戻り、「十二支」とは2つずれます。つまり、奇数の組み合わせは存在しないということです。

 言葉で説明しても分かりにくいので図にします。

 2021年が「辛丑」、表の数字では1と5です。9年後の2030年には「庚戌」0と2、十干が1巡する2031年には「辛亥」1と3になります。十二支が2つズレていますね。5 ⇒ 3  そして、60年後の2081年に十干十二支が一巡して「辛丑」に戻ります。この間、十干を6回繰り返し、十二支を5回繰り返すことになります。

 結局、十二支と十干との組み合わせは、1つの十二支に対して十干は5つしかないということです。たとえば、「丑」と組み合わさる十干は「甲・・丙・・戊・・庚・・壬・」の5種類。『乙丑』『丁丑』『己丑』『辛丑』『癸丑』のみです。「甲丑」「丙丑」「戊丑」「庚丑」「壬丑」という干支は存在しないのです。

 なぜ、こんなエクセルシートが必要なのかというと、管理人は他人の書く記事を全く信用していないからです。この記事の別の表に示す計算でも間違いがあります。自分だけが知っている間違い。勝手に引用すると、間違いもそのまま引用されます(www。そのうち直しますが)。自分でやってみることで、全く違った視角が現れます。

 ここで重要なことは、干支で表記する『干支紀日法』で記紀が記載されていることから、日の干支は暦の影響を受けないということです。この手法を考案した古代中国人に感謝です! ただし、改暦によりスタートが変更になれば年の干支が変わります。干支の話しは次の項で説明します。

 ただ、暦法が違うと異なった結果になる。干支の記述に関し日本書紀に使われている暦法は、「元嘉暦」と「儀鳳暦」の2つです。成立は「元嘉暦」が古く、その後で「儀鳳暦」ができたのですが、日本書紀では、5世紀以前の古い時代が「儀鳳暦」、それ以降が「元嘉暦」と逆転しており、その後、再び「儀鳳暦」が使われます。

 ここまで本記事を読んだ方はこの理由が分かると思います。日本書紀編纂の後期には「儀鳳暦」が使われていました。古代の年代不詳の出来事は、今使っている「儀鳳暦」に基づいて時代特定をしたと思われます。その後の「元嘉暦」が使われていた時代は、そのまま「元嘉暦」の日付けを使い、直近の「儀鳳暦」が使われ出した時代については、「儀鳳暦」を採用する。

 このような操作が行われたという意味は、編纂者が「原史料」の日付けを最重視した現れだと感じます。

元嘉暦と儀鳳暦とは

 いよいよ本記事の本題に入ります。

 日本書紀の日付けに関する重要な記述として、「太歳甲寅の年の冬十月丁巳朔辛酉の日」があります。この意味が分かりますか?

  

この項は後回しにします。

 

暦法の分岐点

 『日本書紀』は神武天皇から第20代安康天皇まで『儀鳳暦』を使用し、第21代雄略天皇から持統天皇までは『元嘉暦』を用いています。

 神武天皇元年1月1日(辛酉の年の春正月庚辰朔)に天皇が即位しました。・・・ということにしようと日本書紀編纂者は計算で日付けを算出しました。これを西暦にすると紀元前660年2月11日です。そして、これはグレゴリオ暦換算です。

 雄略天皇元年1月1日(丁酉辛亥)に第21代雄略天皇が即位します。これを西暦に換算すると457年2月11日になります。

 神武天皇から第20代安康天皇までの年紀は「儀鳳暦」が使われています。暦の分岐点は第21代雄略天皇が即位の年(457年)になっているようです。

 日本書紀編纂者は、当時の最新の暦(儀鳳暦)を使って、史料のない時代の歴史を「紡いでいった」、いや、「分解していった」のでしょう。

計算サイト「換暦」による表示

 日本書紀には、編纂に当たり使っている暦法についての説明はありません、とされています。それは本当でしょうか。

 しっかり書かれているように思うのですが。

西暦673年  天武天皇即位

紀元前667年 神武天皇東征

 673+667=1340 (紀元0年はないので、実際には 1339年+X日 ≒ 1340年

 天武天皇の即位年と神武天皇の東征の年との間隔を、日本書紀編纂者が1340年と設定したということです。

 この1340という数字は、「儀鳳暦」の根幹をなす重要なものです。暦の計算に使われていた諸定数の分母をひとつの(1340)に統一し、これを「総数」と呼びました。まさに、宇宙の真理を示すかのような定数で、太陽も月もその動きを説明できるのです。まるでアインシュタインが特殊相対性理論からみちびいた「E=mc²」と似ています。シンプルな式ほど美しく、宇宙の真理・基本原理に近い。

  • 1太陽年= 489428(基実) ÷ 1340(総法)=365.24478日
  • 1朔望月= 39571(常朔実)÷ 1340(総法)=29.530597日
  • 1近点月= 27 + (743 + 1 / 12)÷ 1340(総法)=27.554540日 (変日)
  • 1交点月= 27 + (284 + 113 / 300)÷ 1340(総法)=27.212221日 (交終)
国立天文台

 総数の二乗 1340X1340 = 1795600

 『日本書紀』に最初にあらわれる年数に「百七十九万二千四百七十余年」があります。天照大神の天孫、()()(きぎの)(みこと)が日向に降臨してから1,792,470年あまり後に、甲寅年(BC667)に神武天皇らが東征を開始したことを示している記述です。

 この日本書紀の「1,792,470年」と総数の二乗「1,795,600」があまりにも近似していることは多くの人が気づいているようです。しかし、完全に一致している分けではない。この差を説明しようとしている人もいますが、ほとんど説明になっていません。

 重要なのは、1,792,470年という記述が日本書紀に記された最初の数値だということです。ということは、中国の暦の基本である暦の始まり「上元」を記載する「上元積年法」に基づくものではないかと考えるのが常識的です。

 日本の威信をかけて編纂した「日本書紀」。これを認めて欲しい相手は「唐」です。この歴史書を開いた中国人が読むのが最初の部分。30巻もある朝貢国の歴史書などまともに読む人などいないでしょう。だからこそ、「1,792,470年」という数値はとても重要な意味を持つのです。単に当てずっぽうに書いたものではありません。

 このような太古の年代を記載する理由は、王朝の権威を獲得したいからです。単に古い王朝だと言いたいのであれば、180万年前でも179万2千数余年でもよいわけです。それが1,792,470年という詳細な記述になっている。

(日本でいうところの「儀鳳暦」の)基準年の甲子麟徳元年(AD664)の269880年前を「上元」として、その前年冬至朔日(十一月一日)から暦が始まるとした。これは「上元積年法」と言われる暦元を遠い過去に置いて計算する方法である。古代中国では『漢書』で示された「三統暦」以降、この方法が用いられてきた。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage995.htm

 日本書紀の冒頭で、この書物で用いる暦法の暦の始まり「上元」を宣言している、と読むことができます。そして、当時の中国人であれば、「1,792,470年」の意味を即座に理解できたと考えられます。なんて格調高い歴史書なんだ!、と日本の暦に関する造詣の深さに感嘆したでしょう。そうでなければ、このような数値を書く意味がないのです。

 この数値の解釈について、いくつかの仮説があります。ひとつは、1792470の平方根が1338年と304日となり、これは、天武天皇即位の673年と神武天皇東征開始の667年との年代に一致するというもの。でも、これは本末転倒のように感じます。総数1340の二乗の年を「()()(きぎの)(みこと)が日向に降臨」としたのなら、こうなるのはあたりまえのこと。開平法計算は手計算では難しいし、日付けまで計算しても、意味があるとは思えません。さまに、数字遊びの世界です。あなたなら、手計算で、1792470年を導き出せるのですか?

 以前、「大ピラミッド建造方法の謎を解明する」という記事を書いたとき、「現代の数学者ならば、テイラーの仮説を一笑に付すでしょう。現代の数学者で大道芸人でもあるピーター・フランクルが、数学的に偶然の一致であるにもかかわらず、あたかも意味があるかのごとく説明する偽理論をテレビでやんわりと批判していました。」と記述しました。これは、ピラミッドの階段の幅が太陽と地球との距離を表している、など、たまたま数字が一致したことを根拠に自説を発表している人たちがいることを批判しているものです。 304日の意味を導き出したとしても、それは後付けの仮説に過ぎません。これを中国人にどうやって説明するのでしょうか。

 また、別の方は、

 という関係式を導き出しています。しかし、1800の説明がうまくできない。「日本書紀」編集者は、簡単に説明できなければ、この数字を書く意味がないのです。編纂者は、なぜ、1340の二乗ではなく、それよりも3130年少ない1792470年としたのか。そこには、中国人を驚かせる仕掛けが隠されている、かも?

 そのように考えると、儀鳳暦の1太陽年の計算式に謎を解くカギがありそうです。

 1太陽年= 489428(基実) ÷ 1340(総法)=365.24478日 

 この「基実」がどのようにして算出されたものなのか分からないのですが、基実算出根拠に基づき、ここをいじって1792470年を算出したのであれば、唐の暦学者も日本国の暦学者のレベルに驚くかも知れません。

 単純にこの式を見るならば、「総数」は無単位の係数です。ということは、基実の単位は「日」ということです。右辺の単位が「日」なので。

 ちなみに、元嘉暦は次のようになっています。

 1太陽年= 222,070(紀日)÷ 608(紀法)=365.24671日

 唐の暦博士をうならせるには、中国の歴史や思想から計算した数値ということも考えられます。

 たとえば、『孔子(紀元前552年または紀元前551年 – 紀元前479年)』。神武天皇即位設定日より100年後くらいに活躍した中国・春秋時代の思想家ですが、中国歴代の王朝に絶大な影響力を及ぼしています。

 もう一つ考えられるのが『仏教』。

 『日本書紀』には、護国経典『金光明最勝王経 』の「声聞独覚」を「周公孔子」に変えて用いている箇所があります。さらに、この経典を引用している箇所も何カ所か確認されています。5)

 『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇は、仏教を「国家仏教」(律令国家仏教)として考えていたようです。日本国の起源の算定には、「仏教」が関わっていたと思います。そして、それは、唐の暦博士も納得できる起源設定だったと思います。「1,792,470年」という数値には、必ず算出根拠が存在する。端数処理を日付けに換算する手法は、管理人には理解できません。

 あれ?、天皇が神なのでは?、という発想は、薩長出身の政治家が作り出した幻想です。実際、天武天皇のひ孫にあたる聖武天皇は、世界最大の鋳造品、奈良の大仏を庶民の力を結集して造っています。

 なぜ、天皇が神ではないのか? それは、中国の歴代王朝の滅亡を見れば分かります。自分が神になると、数代たたずにその王朝は滅亡し、その子孫は皆殺しです。当時の日本にとって、「律令」を備え、「仏」の庇護の下に争いのない平和な国家こそが求められる国だったのでしょう。明治以降の日本でも、神になったとたんに、わずか三代で滅亡という危機が訪れていますね。

 唐の暦学者を驚かすもう一つの考え方が「陰陽五行思想」でしょう。たぶん、これが有力かも。

日本書紀の作り方

 日本書紀の作り方をみると、様々な謎が解けるように思います。

【材料】

 日本書紀編纂のあたっての材料は『古事記』とは異なります。

・『帝紀』
・『旧辞』
・墓記:諸氏に伝えられた先祖の記録
・風土記:地方の諸国に伝えられた物語の記録
・政府の記録
・個人の手記
・寺院の縁起
・具陀羅尼関する亡命、帰化人による記録(百済三記:「百済記」、「百済新撰」
・中国の関連史料(史記、漢書、後漢書、三国志、梁書、隋書、文選、金光明最勝王経、淮南子)

【編纂責任者】

・巻第1~巻第14  山田史御方(みかた)
・巻第14~巻第23   (音博士)続守(しょくしゅ)(げん)
・巻第24~巻2第6   (倭人)
・巻第27~巻第29  (音博士)薩弘恪(さつこうかく)
・巻第30     (きの)清人(きよひと)

【作り方】

1. 最初に、時代を考慮してグループ分けし、編纂グループ責任者を決めます。

 古い時代の史料ほど漢文ではなく、和製漢語が使われていることから、渡来人では史料の内容の理解が難しい。史料が乏しく、また、和製漢語で記され、年代特定が困難な第十三代までは、新羅に留学経験のある「山田史御方(やまだの みかた)」を責任者とする。他の年代は、唐からの帰化人で音博士の二名(続守言・薩弘恪)を責任者として配置し、漢語文献としての威信を保つ。

2. 編纂に用いる史料は『古事記』編纂で用いた『帝紀』と『旧辞』だけではなく、そのほかの文献・史料も収集・分析するグループも新設します。

3. 『古事記』編纂にあたり、年代の特定が困難であっとの反省から、「古代暦」、「元嘉暦」、最新の「儀鳳暦」の換算表作成チームを組織し、歴代天皇を年表に当てはめていくための基本となる暦換算表をつくります。

4. 基本方針として、異なった暦が使われた史料に残る年月をすべて「儀鳳暦」に換算するのではなく、原史料の年月を優先します。理由は、史料は失われることは少ないが、換算した方法を記した資料は失われる可能性大きいから。暦の換算表は、あくまでも、歴史年代の特定の場合のみ使われ、換算表を使って年月日を修正することは、原則として行わない。

最初の難題

日本書紀編纂者が最初に直面したのは、『魏志倭人伝』に書かれている女王卑弥呼とその後継者台与(壱与)の記録でした。

239年 魏、卑弥呼を親魏倭王とす。

240年 帯方大守、使者を倭国に送る。

243年 倭王、魏へ朝貢す。

266年 倭女王壱与、西晋に朝貢す。

そこで、日本書紀編纂者は、「神功皇后=卑弥呼」と比定し、神功皇后の在位を201年より269年の69年間とします。

問題となるのが、神功皇后の息子の応神天皇の即位です。日本書紀編纂者は、それが390年であることを知りながら、120年(十干十二支の二巡)遡らせ、270年とします。

270年に応神天皇が即位したとき、彼は69歳でした。248年頃に亡くなった卑弥呼に合わせて、神功皇后も死去したことにし、248年に応神天皇が即位したことにしてもよかったはずです。しかし、日本書紀編纂者たちはそれをやらなかった。

 理由は、十干十二支60年の巡にこだわったこと。今後、どのような史料が出てくるか分からない。もし、その史料に何年のことか書かれていたとしてもそれは「十干十二支」で書かれているはずです。いつの巡の干支なのかは誰にも分かりません。つまり、60年1巡のルールさえ守っていれば、おかしいと指摘されることはほぼないと考えたのでしょう。

 つまり、この時代設定をするには、卑弥呼の年代と「十干十二支60年」という二重の縛りがあったことになります。

上で、「日本書紀編纂者は、390年であることを知りながら、120年(十干十二支の二巡)遡らせ、270年とします。」と書きましたが、三巡の180年遡りではだめなのでしょうか。

ダメなのです。180年遡ると、210年即位となり、卑弥呼の時代より前になってしまいます。「神功皇后=卑弥呼」のストーリーが成り立たなくなります。

次の難題

 次にやるべき事は、第15代応神天皇即位年を120年遡った事による続く天皇の辻褄合わせです。

 これは、第16代仁徳天皇から第20代安康天皇までの5代の天皇で行うことになります。

 なぜ、5代の天皇なのか。それは、その次の天皇、第17代雄略天皇の即位日の記録が中国などに残っていたからです。このため、120年間遡った辻褄をわずか5代の天皇で合わせることになります。

 その結果が次表です。

 応神天皇の実際の即位は、390年と特定されています。また、雄略天皇の即位年は457年と特定されています。その差は67年です。

 一方、日本書紀では、第15代から第20代まで空位の期間も含め187年の在位期間を設定しています。

 この意味は、187-67=120 ここで、120年遡りを修正していることが分かります。

実際の在位期間

 120年遡るという処理をする前の実際の在位期間はどうなっていたのでしょうか。

 これは、古事記と比較することで算出できます。ただし、古事記の記述が正しいかどうかは別の次元です。

 古事記には年代はほとんど書かれておらず、唯一書かれているのが一部の天皇の崩御年です。

 日本書紀は、120年遡るという処理をしましたが、古事記は『帝紀』や『旧辞』を基に書かれたと考えられ、もし、間違いがあるとすれば、原典の『帝紀』や『旧辞』に誤りがあったということになります。

 この古事記に記載された天皇の崩御年を使えば、15代~20代までの実際の在位期間を算出できます。

 下の表が算出結果です。この時期の天皇の実際の在位期間が分かると、謎とされている『倭の五王』についても、この表から推測できそうです。

 既にお気づきのように、古事記で最も古い崇神天皇の崩御年『戊寅』(西暦318年)の記録を誰が残したのか、という疑問です。この記事で、暦の伝来についてこだわってきた理由がここにあります。

 この年数はデタラメなのか。たぶん、『帝紀』や『旧辞』の編纂過程でそんな記録を見つけたのでしょう。しかし、そんな記録が倭国に存在するはずもない。いや、存在するのです。これを残せるのは、「帰化人」だけです。

 倭の五王とはどの天皇を指すのかについては諸説あるようです。研究者たちが持ち出す出典に『三国史記』があります。高麗17代仁宗の命を受け、「1143年に執筆開始、1145年完成、全50巻」という驚くべき書物です。日本書紀完成から400年後に編纂された『三国史記』、しかも、わずか3年で編纂している。この書物はどうやって編纂されたのでしょうか。編纂に使われた原典は何なのでしょうか。『三国史記』を根拠に『日本書紀』を読み解く研究者もいるようですが、管理人には、その方法に疑問を感じます。

「日本書紀」は何のために書かれたのか、を忘れた議論はおかしい

 「日本書紀」って何の目的で編纂されたのでしょうか。これを改めて問いたい。

 ネット上で見つかる記述として、「日本神話.com」さんでは「外国に対し、日本にも歴史書が存在し、「国際的に、日本という国家の成立や、歴史の正当性を示すことを目的に編纂された『日本書紀』。日本としてのアイデンティティを確立し、国際社会に打ち出そうとしています。」と書かれていますが、他のサイトも似たり寄ったりの記述しかありません。これが定説なのでしょう。

 この場合の国際社会とは「唐」のことです。何しろ、日本が朝貢している国です。それ以外の国ってあるの? もしかして新羅?

 すると、「日本書紀」に決して書いてはいけないことが見えてきます。そのひとつが、中国の歴史を越えた日本史を記載してはいけないこと。これは絶対条件です。もし、これに反した記述があれば、第一回遣隋使の二の舞になります。遣唐使派遣など夢物語です。

そこで気になるのが、『日本書紀』第三巻にある「天祖降跡以逮于今 一百七十九二千四百七十」の記述です。

 遣唐使は、この記述を唐の皇帝にどう説明するのでしょうか。

 総法の二乗や記述間違いなど様々なケースを考えましたが、あまりにも桁数が多いため、説明が難しいことが分かりました。小手先のやり方では、唐の暦博士を納得させることはできません。

 ふと、これって、読み方が違うのではないかと思いました。

 「一百七十九二千四百七十」とは、1792470余歳でしょうか。これでは唐の皇帝が激怒し、遣唐使は生きて日本に帰れませんね。朝貢国の分際で、身の程知らずも甚だしい! 日本使節は即刻打ち首にせよ! 、という光景が目に浮かびます。

 「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の「萬(よろず)」の意味が違うのではないか。この文は二つに分け、読みは、「179歳、2470余年」なのではないか。

 そう考えた理由は、数字の読み方です。舎人親王編の原文には、「一百アマリ十九アマリヨロツ二千アマリ七十アマリ」と書かれています(『日本書紀』第三巻 舎人親王編、国立国会図書館)。

『日本書紀』第三巻 舎人親王編、国立国会図書館、コマ番号 3/35

 これは何なのでしょうか。数字の位ごとに「アマリ」を付けて読み、最後の「」もしっかり「アマリ」と読んでいます。

 ここで遣唐使の立場になって考えます。場面は、唐の皇帝の面前です。遣唐使は何と説明するのでしょうか?

 「我が国では「萬」と「歳」を「万歳(萬歳)」と縁起のよい言葉と捉えており、ここでの「萬」は「歳」を示しています。「一百七十九万二千四百七十余歳」とは1792470余歳ではなく、179歳、2470余年という意味で書かれています。」

 このような考えが浮かんだのは、あるサイトで「神代事紀」の記述として、

 二十一萬八千五百四十二年218543年)、六十三萬七千八百九十二年637892年)、八十三萬六千三十二年836032年)

 という年代が書かれている・・・らしいことを知ったからです。これらの年数も途方もないものですが、萬を歳に置き換えると、それほどおかしな数値ではなくなります。歴史研究者が扱える範囲に収まる数字になります。読み方を変えただけなので、何の計算も必要ありません。

二十一萬八千五百四十二年218543年) ⇒ 21歳、8543年

六十三萬七千八百九十二年637892年) ⇒ 63歳、7892年

八十三萬六千三十二年836032年)   ⇒ 83歳、6032年

 年齢に続く部分も桁違いに大きな年数を示していますが、所詮は4桁です。この程度なら、いくらでもこじつけができそうです。1統=18章=1539年、などの年代レベルです。

 なお、『日本書紀』を確認しましたが、この三つの年代の記載はありません。これが書かれている「神代事紀」って何? ネット情報はゼロ! 中国語でしかヒットしない不思議な古文書です。

編集後記

 二つの日付け間の計算と干支(十干十二支)との関連づけができるエクセルブックを作りました。いろいろ分析するのにどうしてもエクセルでの計算がしたい。日本書紀編纂者も、まず始めに暦・干支換算表を作ったと思います

 でも、エクセルは1900年以前の日付け計算はできません。このため、ユリウス日を用いて計算し、それをグレゴリオ暦に戻す。さらに、西暦から十干十二支を表示する。『換暦』などのネットサービスでも調べることができるのですが、たくさんの年代を扱うのには不便です。作業をしているうちに思考が途切れる。さらに、古い時代の紀元前には対応していないという問題もあり、日本書紀の分析には今ひとつ使いにくい。

 前から作ろうと思っていたので、重い腰を上げて作ることにしました。グレゴリオ暦 ⇔ ユリウス日 ⇔ ユリウス暦 ⇒ グレゴリオ暦 ⇒ 十干十二支 変換ができるエクセルシートです。大体できたので、そのうちお裾分けします。

 この記事はいつ書き終わるのだろうか? そのうち飽きてしまう自分が怖い。書き終えることができればよいのですが。

 ちなみに、上の表の十干十二支は、自作のエクセルシートを使って計算しています。このシートはとても便利で、紀元前何百万年でも問題なく表示できます。まさに、日本書紀解析の必須アイテムです。

 こんな事をやっているから、いつまで経っても書き終えられないという気もしますが。

 

 作業をしていて感じたのは、日本書紀編纂者は、日付けを『絶対に間違わない』ということです。現代の歴史家が、自説に都合が悪いと原典が間違っていると、意味不明な作文を書きますが、管理人は、日本書紀編纂者は、「日付けは絶対に間違えない」と感じました。絶対にです!

 編纂作業の最初に作成した暦・十干二支換算表は、一切の間違いが許されない完璧なものだったろうと思います。

 「倭の五王」の検討をしなかった理由は、信頼できる史料がないのではないかと感じたからです。3、4世紀に倭国から朝鮮半島に数万の軍隊を送ることなどできたのでしょうか。どうやって送ったのでしょうか。

参考文献

1) 『『日本書紀』編纂史料としての百済三書』、仁藤敦史、国立歴史民俗博物館研究報告 第194集、2015年3月

2) 『ディスカッションペーパー 視点を変えた「謎の4世紀」、朝鮮側の資料から日本の「謎の4世紀」を探る』、増子哲央、頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要 Vol.2/No.6、2017.9.12

3) 『暦で読み解く古代天皇の謎』、大平裕、PHP文庫、2015

4) 『倭人の暦を探る: 数字から読み解く歴史の謎』、谷崎俊之、大阪市立大学 数学セミナー. 55(7); 1-9、2016.6

5) 『『日本書紀』 仏教伝来記事と末法思想(その1)』、吉田一彦、2007