中尊寺金色堂の三体の阿弥陀如来像はどこを見ているのか:平泉黄金伝説に迫る

はじめに

今日は、みんなが大好きな「黄金」のお話です。

日本の『黄金』と聞いて最初に思い描くのは『中尊寺金色堂』のこと。しかし、平泉の黄金文化は金色堂ばかりではないはずです。『中尊寺金色堂』が奇跡的に現代まで残っているに過ぎません。もっと多くの建造物に黄金が使われていたと考えられます。

ちなみに、『中尊寺金色堂』に使われている金の総重量は、15Kg程度のようです。

この記事執筆時点での金地金の価格は、1グラム7000円程度。金色堂に使われている黄金の金地金の価値としては1億円程度に過ぎません。でも、金色堂を新たに造ろうとすれば桁違いの金額になります。そこで使われているのは金地金ではなく「金箔」だからです。

マルコポーロの『東方見聞録』に記載されている「指二本分の厚さの黄金の床」は平泉では確認されていません。

では、その記述は嘘なのか? それを「嘘」として片付けたがる人の発想はとても貧弱な気がします。『東方見聞録』に書かれているからきっと本当に違いない!(笑)

「黄金」に関するネット上のたくさんの記事を閲覧していて感じることは、”つまらない”ということです。なぜつまらないと感じるのか。それは単なる感想文に過ぎない内容だからです。なんら出典も明示せずに主張されても、最初からその論調に対し拒絶反応が生じます。

「平泉の黄金文化」について語ろうとするのなら、その当時の「金」は世界でどの程度の量が生産されていて、それとの対比で平泉での生産量を比較しないとイメージが湧かない。

でも、それは無理な相談。そんな資料などどこにも存在しない。だから、書籍を執筆する方は慎重に、とても限定的な範囲で紹介しているように思います。

史料がないのだから分かるわけがない、と切り捨てるのではなく、分からないなら分かる範囲で情報を集め、当時を偲ぶという考え方もあるのではないでしょうか。それは、決して後ろ向きの発想ではなく、全体像を把握するのに適しているように思います。そのヒントは「 定量的に捉える 」ということ。これにより、間違った議論に陥ることが避けられると共に、推論の確からしさが増大すると思います。

金色堂の阿弥陀如来はどこを見ているのか?

以前、『平泉金色堂に眠る藤原氏四代のミイラの謎に迫る』という記事を書きました。

その中で、ふと気づいた阿弥陀如来の視線の先という考え方。金色堂に安置されている三体の阿弥陀仏像が気になりました。この三体の像は同じ方角に向いて安置されています。なぜ、この方角なのだろう? そして、どこを見ているのだろう、という疑問が沸きました。

阿弥陀仏が向いている方向は、南南西です。なぜ、阿弥陀仏は南南西の方角に向けて安置されたのでしょうか。その方向に何があるというのでしょうか。

そこには、これまで誰も気づいていないことが秘められていました。

それは、『東経141度』の謎です。

今回はこの謎を追うことにしましょう。

平泉の黄金がどこから来たものなのか阿弥陀如来が示していた!

金色堂の座標位置はどうなっているのでしょうか。

中尊寺金色堂 緯度:北緯 39 度00 分04 秒
経度 :東経  141 度05 分59秒 

重要なのは『経度』です。東経141度に金色堂は位置しています。

実は、奥州藤原氏の黄金文化を支えた金山は、この『東経141度』線上に並んでいるのです。

緯度40度付近の経度1度の長さは、約85.393Kmです。3)

ここで着目すべきは、東経141度ラインが恐山を通っていることです。

それがどうしたの?

恐山から世界最高品位の金鉱が見つかっています。それも桁違いの品位なのです。

世界の金鉱の中でも鹿児島の菱刈金鉱床が世界最高品位の金を含有しています。この鉱床の鉱石は1トンあたり約50グラムの金を含みます。これは驚異的な金含有量とされています。

ちなみに、世界の金鉱山では、1トンの金鉱石から採取できる金量はわずか5~6g程度のようです。菱刈金鉱床はその10倍ということになります。

ところが、恐山で見つかった金鉱は、局所的ながら金の含有率は400g/トンを上回るそうです。世界の金鉱床の80倍の金を含む鉱床です。

温泉沈殿物の金品位として、この値は今のところ世界最高記録です。何と世界最高水準の菱刈金鉱床の8倍の金を含んでいます。そして、それは泥の形で存在している。

ところが、恐山は下北半島国定公園に指定されているため、勝手に掘削することはできません。このため、この資源はほとんど話題になりません。

ただし、様々な法律よりも優先するという恐ろしい鉱業権が設定されているようなので、実際には掘ることが可能かも知れません。中国資本が目を付けているのは間違いありません。

東経141度ラインについての謎は、後ほど書くことにします。

日本で金が見つかったのはいつ?

奈良東大寺の大仏、盧舎那仏像は、天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われました。

一方、日本で最初に金が発見されたのは、文献によれば、天平21年2月のこと。

天平21年2月(749年)、陸奥国より国内で初めて黄金を産す。四月、陸奥国守 百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が小田郡より黄金900両を朝廷に献上する。五月、陸奥国の調庸(ちょうよう)を三年間免じ、小田郡は永く免じる(続日本紀)とあります。

この黄金は造立中の奈良の大仏の鍍金(金メッキ)に用いられました。

つまり、聖武天皇の発願で大仏の建立が始まった天平17年(745年)には、日本で金が見つかっていなかったと言うことです。では、聖武天皇はどこから金を入手しようと考えていたのでしょうか。

どうやら、中国(宋)からの輸入を考えていたようです。そして、日本で金が見つかったことに大喜び。調庸を免じるという特例を発します。

では、朝廷に献上されたという黄金900両とは、何キロの黄金だったのでしょうか。

当時の1両は42グラム程度だったようです。1)

と言うことは、朝廷に献上された黄金900両は、37.8kgに相当します。現在の金地金換算で2億6千4百万円程度の価値となります。

奈良の大仏は金箔ではなく金メッキが施されていたようで、それに必要な金の量は、10,446両と言われているそうです。2)

大仏建立には、平泉から朝廷に献上された900両の12倍の金が使われました。これは、毎年、金を朝廷に献上していたと言うことなのでしょう。900両はあくまでも砂金が見つかった最初の年の献上額です。献上された黄金の総量は、10,446両をはるかに越えていたことでしょう。

また、平泉中尊寺が7000余巻の宋版『一切経』を宋から輸入するために、10万5000両(4410キログラム)という莫大な量の砂金を支払ったという資料が残っているそうです。(105,000両 X 42g/両 = 4,410kg = 4.41トン) 5)

ネットでよく見かけるこのデータの出典は、宮崎正勝氏著『ジパング伝説』のようです。では、その原典は何なのでしょうか。

宮崎氏の書籍は読んでいないのですが、中川成夫氏の論文『奥州平泉中尊寺大長寿院の一考察』に次のような下りがあります。

「正和二年(一三一三》の大衆訴状によれば、淡海公後胤工削之陸奥守藤原朝臣清衡、奉送十万五千両沙金、於宋朝帝院、凌万里之波濤、越数千山河、奉渡処七千余巻之経也」

初代藤原清衡が金色堂を建立したのは、天治元年(1124年)のこと。上の記録はそれから190年あまり後に書かれたものです。当時、そのような言い伝えがあったと言うことでしょう。

マルコポーロの『東方見聞録』は1298年成立(精選版 日本国語大辞典の解説)のようなので、これが書かれたのは上記「大衆訴状」より前になります。

10万5千両、4.4トンもの砂金が中国に渡ったのですから、これが中国(宋)で話題にならないはずはありません。そして、その話題をマルコポーロが聞いたとしても何らおかしなことはありません。

藤原氏が一切経を購入した相手は宋(北宋:960年 – 1127年)なのでしょうか、それとも南宋(1127年 – 1279年)なのでしょうか。

まさに微妙な時期です。金色堂建立から3年後に南宋になっています。一切経の購入年は不明です。

ここで、ふと疑問が沸きます。こんな4.41トンもの砂金による商取引が当時可能だったのかと言うことです。

経典を運搬する船、あるいは砂金を運搬する船が沈没するリスクがとても大きいからです。この取引は双方共にかなりのリスクを伴います。

最もありそうな推測は、この交易は 宋の商人が複数回に分けて行った ということです。そうでなければ、こんなハイリスクの取引などできません。

中尊寺金色堂に使われている 螺鈿(らでん) は奄美大島産のものが使われたと推測されています。また、 紫檀 は東南アジア、さらには アフリカ象の象牙 も使われています。

平泉は、宋との交易を京都を通じて行っていたと考えられていましたが、柳之御所遺跡の発掘時に、当時宋でしか作れない良質の磁器がたくさん出土したことから、平泉は京を経由せず宋と直接交易していたと考えられるようになりました。「磁四耳壺」と呼ばれる当時の京でもほとんど発掘されない珍しい高級磁器が出土したことが決め手となったそうです。

交易は、日本海ルートと太平洋ルートの二つがあり、太平洋ルートでは、北上川を北上して平泉へ運んだとされています。

積み荷が高額なため、交易に使われた船は宋の外洋船だったと思います。

和船が太平洋ルートで東北から江戸まで物資を運んだのは江戸時代に入ってからです。館山沖が難所として恐れられていたため、利根川東遷事業により銚子付近に利根川の流路変更した後は、利根川ルートで東北の年貢などの物資を江戸に運ぶことになります。

奥州藤原氏の時代はこれよりも400年も前のこと。和船を使って宋と交易するなど、あまりにもハイリスクです。積み荷が積み荷だけに誰もそんなハイリスクの交易などしないでしょう。

世界の金生産量と驚くべき傾向

黄金文化について書いていて、現在、世界の金生産量はどのようになっているのか気になったので調べてみました。

この表で着目すべきは、近年、金生産量が急増している国々です。ネットで調べれば直ぐに分かりますが、中国資本が入っています。

中国本土の生産量も世界最大になっていますが、中国資本が世界の金を占有している実態は、カナダ、パプア、ガーナなどで様々なトラブルを引き起こしていることからも推測できます。

中国の「一帯一路」について書かれたネット上の記事を読むと、どこかのコピーペ記事でステレオタイプの記事であることが分かります。世界の金を中国が占有しているという実態が見えてきません。誰も気がついていないと言うことでしょうか。

上の表は、2007年から最新のデータ(暫定値)が得られる2019年までの主要産金国でまとめてみました。

この表を見て感じるのは、毎年、世界の金産出量が増加しているにもかかわらず、資源量も増加しているということです。

金は、宝飾用途の他に精密電子機器に使われており、その用途は広がる一方です。

表では日本は出てきません。産金量があまりにも少ないからです。日本の産金は、ほぼ全てが菱刈鉱山のものです。その採掘量は年間8トン程度。

黄金の国ジパングはもはや夢の彼方に消え失せたのか。

ところが、現実は違うようです。日本は、現在でも主要な産金国であるらしい。

えっ、と思いますが、その答えは、副産物としての金抽出と都市鉱山の存在です。

身近な話として、オリンピックのメダルをこの都市鉱山の資源を使って作るというプロジェクトがあります。オリンピックメダル製作に必要な資源は、
金:約32kg
銀:約3,500kg
銅:約2,200kg

これが、携帯電話を含む小型家電回収によりまかなわれました。まさに都市鉱山です。

たとえば、パソコンなどに使われているCPU。1枚の重さは約25gですが、含まれている金は約0.1gです。

一方、世界の金鉱山の金鉱石1トンに含まれる金の量は6g程度です。すると、CPU60枚で金鉱石1トン分の金が得られる計算になります。つまり、CPU1.5Kgで金鉱石1トン分と同じ金が得られるのです。

さらに、CPUは鉱山のように掘り出す作業、製錬は必要ありません。CPUから金を抽出するには、精錬します。

ちなみに、携帯電話に含まれている金の量は約0.01g程度なのだそうです。

「製錬」と「精錬」の違い
製錬とは、鉱石から金属を取り出すための作業を言います。

精錬は、金属から不純物を取り出す作業のことを指し、英語ではrefiningと言います。

出典:https://nanboya.com/gold-kaitori/post/metallurgy-howtomake-gold/

世界の金の供給量の大部分を占めているのは、「鉱山から採掘する自然金」と「中古金スクラップ」になります。中古金スクラップとは、すでに利用されたものをリサイクルすることで供給される金です。

世界の金生産で、鉱山生産量と中古金スクラップ生産量の割合を見ると、中古金スクラップ生産量は鉱山生産量の約半分程度です。逆に言うと、中古金スクラップ生産量は金鉱山生産量の半分を占めていることになります。(データはGFMS、Thomson Reutersで探してください。)

日本で商業ベースで金山を掘削しているのは前述したように菱刈鉱山だけです。そこで精錬される金の量は8トン程度に過ぎません。ところが、日本では、精錬により、年間69.4トンもの金を生産しています(2017)。そして、貿易統計を見ると、日本は金の輸出国になっています。その量がすさまじい!

金の輸入量に対し輸出量が圧倒しています。日本は金の輸出大国だったのです。

なぜ、菱刈鉱山しか金山が存在しない日本が金の輸出国になっているのか。とても不思議です。

実は、金は金鉱山だけで採れるわけではありません。金は様々な鉱石の製錬過程で生産されます。いわゆる目的鉱物の副産物として含まれている金が製錬により抽出されるということです。

日本の場合、世界中から大量の鉄・銅などの鉱石を輸入して製錬しています。その副産物が金ということです。

さらに、都市鉱山の存在があります。次は「再生金」です。

「国内回収(再生金)廃棄物からの金の回収・精製は古くから行われている。現在は、パソコンや携帯電話に使用されていたプリント基板、IC、セラミックパッケージ、リードフレームや使用済みターゲット、メッキの廃液並びに使用しなくなった宝飾製品等が回収・精製され、金地金に戻されている。製錬所へ戻らずに二次加工業者によって再生されるものを再生金として区別している。」(環境省HP)4)

この「再生金」が都市鉱山からの贈り物。その埋蔵量は、なんと6,800トン。世界の金鉱山の埋蔵量が50,000トン(2019年暫定値)とされているのですから、都市鉱山の埋蔵量の多さには驚いてしまいます。

金色堂の阿弥陀仏は何を見ているのか? その視点の先は?

管理人がこのような視点を持ったのは、金色堂の設置方角が変わっていると感じたからです。それはきっと何か理由があるはず!

金色堂の阿弥陀仏は、平泉の政庁があった柳之御所の方角を向いているのですが、それだけの理由なのか、という疑問が沸きました。

そもそも、金色堂を設置できる場所は、現在の金色堂の場所しかありません。山の尾根が入り組んでいるため、山の麓、柳之御所から金色堂を拝観できるのはこの場所しかなかったのです。これについては過去記事で説明しています。

次に金色堂の向きです。その向きは360度、どの向きでも良いわけです。しかし、阿弥陀如来像は南南西を向いて安置されています。金色堂が南南西に向けて建てられているからです。

阿弥陀如来像の視点の先にあるのは柳之御所。

平泉の政庁から毎日、阿弥陀如来を拝観できる。そのための設置角度、とも考えたのですが、もう一つ、別の意図があったのではないかと考えました。それが東経141度ラインの謎です。

「阿弥陀如来像」は何を見ているのだろう? その視点の先には何があるのか?

もしかしたら、それは、平泉の黄金文化を支える金山のありかを指し示しているのではないか?

前回の記事(過去記事参照)で、平泉の金山について調べました。その結論は、東北は金山だらけで、どこもかしこも金山! そんな印象でした。

ところが、『謎ジパング』(明石散人著)という書籍を読んで、東経141度ラインに金山が並んでいるということを知りました(笑)。

過去記事で平泉の黄金文化を支えた金山について調べているので、この書籍の記述がまやかしなのは直ぐに分かります。東経141度ラインに金山が並んでいるということはありません。金山は東北の至る所に存在していました。

しかし、この本は妙に説得力がある書き方になっています。

そう感じると気になります。ということで、調べてみることにします。

東経141度の謎

明石散人氏の『謎ジパング 誰も知らない日本史』という書籍の209ページに以下のような図が掲載されています。(図は管理人が転写作成したものです。)

この図を見て驚いたのは、東経141度ライン上に東北の金山が並んでいることでした。まさに、金色堂の阿弥陀如来像が見ている方角です。実際には南南西ですが。

過去記事で、以下の図をアップしていました。

明石氏の図を見て管理人が驚いた理由がこれで分かると思います。

この図を見ておかしなことに気づきます。東北の金山は、実際には東経141度ライン上にばかり存在するわけではありません。このような図はとても意図的に作成されたものだと一目で分かります。

さらに東北の金山の位置を調べている管理人には、明石氏の図はとても奇妙に思います。

平泉の黄金文化を支えた東北の金山のほぼ全てが閉山しており、現在は昔の抗口すら確認できない旧金山跡地がたくさんあるようです。

明石氏の図の④盛岡金山とはどこなのでしょうか。たぶん、大ヶ生金山のことだと思うのですが、詳細は不明です。

さらに、⑥小田金山、⑦仙台金山、⑧小笠原海底金山とはどこにあるのか。ネットで探しても、そのような金山の存在は確認できません。

明石氏の図は嘘なのか。ところが、金山の位置座標を調べると、まんざら嘘とは言えないことが分かります。

奥州平泉の主要な金山の位置をまとめてみました。

確かに、ほとんどの金山が東経141度付近に位置しています。

実はこれにはカラクリがあり、東北にあるものは何でもかんでも東経141度付近に存在する、と言えるのです。上で書いたように、東北における経度1度の長さは、約85.4Kmです。東北地方は南北方向の縦長のため、東西方向の幅は130~176Km程度しかありません。このため、大体東経141度付近といえば、東北地方は全て入ることになります。

明石氏の書籍では、p.198から「黄金の国ジパング 東経141度線の驚愕」という項目が始まり、P.212まで続きます。

この本は妙に説得力があるのですが、すぐに出典を確認する管理人の目からはどうも怪しいと映ります。

この項は、まず、マルコポーロのジパングの話から始まり、恐山の金鉱床の話を産総研の青木氏の論文を引用して紹介しています。しかし、管理人が青木氏の論文を確認した限り、その論文には書かれていない内容が盛り込まれているように感じました。

同書のp.200に次の記述があります。

「有史以来これまでに生産された金の量は約31億トロイオンス、9万6410トンと推測され、一辺がおよそ17メートルの立方体の大きさに等しい。」

一方、田中貴金属のHPには、次のようなとても似た記述があります。しかし、書かれている数値は違う。

「金は地球上にわずかしか存在しない貴金属です。有史以来採掘された金の総量は、約18万3600トン。国際基準プールに換算すると、約4杯分の計算です。」8)

数値は倍半分の違いがあるのですが、管理人が気になったのはその出典です。誰がどのような根拠に基づき、このような数値をはじき出したのでしょうか。

どちらも出典を明示せずに記載しています。「有史以来・・」など威勢の良い書き方ですが、それを調べるのはほぼ不可能であることを我々は知っています。そんな史料が存在するはずがないからです。

ただ、金は、古来より貴重な鉱物として珍重され、それ故、大切にされてきました。したがって、現在、世界に存在する金の総量が有史以来の産金量と言っても決して的外れではないかも知れません。

金を輸送途中に船が沈没してしまい失われてしまった金塊の量をどのように見積もるのか、という問題もありますが・・。

砂金と金鉱石

管理人が疑問に感じていたことは、奥州藤原氏の黄金って砂金なの? それとも金鉱石から抽出した金なの? と言うことです。

日本で初めて金が産出したのは749年と記録に残っています。宮城県涌谷町で見つかった金は、砂金と考えられています。

時代が下って、奥州平泉の時代。前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの約100年間。

初めて金が発見されてから300年以上経っています。奥州藤原氏の時代も砂金から黄金を採っていたのでしょうか。

300年以上たっても産金技術に変化がなかった? そんなはずはありません。中国・宋と交易していた奥州藤原氏が金鉱石から金を抽出する技術を彼らから学ばないはずはありません。

実際の所、金の抽出にも使われる水銀を使った「水銀アマルガム法」は奈良の大仏のメッキにも使われていた技術です。目新しいものではありません。

16世紀、スペインはメキシコやボリビア・ポトシ銀山などで大量の銀の採掘を行っていました。その時、製錬に使われたのが「水銀アマルガム法」でした。ボリビアに住んでいたことのある管理人は、このため、この技術は16世紀以降のものだと勝手に思い込んでいたのですが、実際は違いました。

日本では、飛鳥時代の遺跡から銀の製錬に灰吹法(はいふきほう)が使われていたことが判明しています。「水銀アマルガム法」は水銀を使いますが、「灰吹法」は鉛を使います。原理的には同じものです。

奥州平泉の黄金文化を支えたのは、川から採れる砂金だけではなく、金鉱山から採れる金鉱石を製錬して金を抽出していた、と考えた方が良さそうです。川から採れる砂金など、300年の間に採り尽くされているはずです。メインは金鉱山だったと思います。

日本で最初に金が見つかったのはどこ?

日本で最初に金が見つかったのは、上で書いたように、続日本紀に記載されている、天平21年2月(749年)、陸奥国より国内で初めて黄金を産すという記述から、陸奥国、宮城県涌谷町の黄金山神社だと思っていました。さまざまなサイトや資料でそのように書かれています。

ところが、明石氏の書籍には違うことが書かれています。

「日本における金の採鉱の歴史はそれほど古くはない。歴史的にみても、西暦698年に対馬、701年に宮城や岩手で金の採鉱がされたというのが最初である。」(同書 p.200)

明石氏の説明では、日本の金の採鉱は50年ばかり遡ることになります。

どちらが本当なのでしょうか。

やはり、餅は餅屋。日本の採鉱を手がける『独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構[JOGMEC]』の資料ではどのように書かれているのか確認します。

かいつまんで書くと、仏教の興隆とともに仏具の需要が増大。金属利用の技法は帰化人や遣唐使などが持ち帰った技術により、金属の製錬は可能となったものの、肝心の原料が日本国内にない。これらの原料は中国・朝鮮からの輸入に頼っていましたが、国内の金属需要が高まり、輸入に頼るのではなく、国内で金属鉱山を探すことになったようです。

○我が国の鉱業黎明期の事跡
・天智天皇7年(668 年):越の国から燃ゆる土と燃ゆる水を朝廷に献上。
・天武天皇3年(675 年):対馬国から我が国始めて銀が発見され、朝廷に献上。
・持統天皇5年(691年):伊予国から銀3斤8両(2.1kg)及び銀鉱石1籠が献上。
・文武天皇2年(698 年):各地から銅鉱、朱砂、雄黄等が献上。
・文武天皇4年(700 年):丹波国から錫が献上。
出典:9)
○我が国最初の鉱業奨励法規
文武天皇は、鉱業の不振を憂え、鉱業の奨励に熱意を示され、大宝元年(701 年)に大宝律令の制定に当たられ、鉱業について次のように規定した。

① 国内に銅鉄を出せる処ありて官未だ探らざるは百姓私に探るを聴(ゆる)す。もし銅鉄を納めまたは庸調を折充するものには、官採の地においても聴す。凡そ山川藪沢の利は公私之を共にせよ。
② 凡そ山沢に異宝、異木及金、玉、銀、彩色、雑物ありて国用に供するに堪ふるをしらば皆太政官に申して奏聞せよ。また、陸奥国、対馬国には金の探査を命じた。

この結果、 文武天皇5年(701年)に対馬国から金の献納をみて、年号を大宝と改元した。 

元明天皇(708 ~ 715 年)の代には、鉱業資源の探査員が全国に派遣され、山形・地質・水質・山草・樹木等について、熱心に調査して回った。
慶雲5年(708 年)に武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が献上され、年号を和銅と改元した。
元正天皇(715 ~ 724 年)は、養老2年(718 年)に養老律令に贖銅法を定め、銅を官納すると刑を減免することとした。
文武、元明、元正と3代にわたる天皇の積極的な鉱業の奨励策が効果を表し、各地で鉱物の発見が相次いだ。
出典: 9)

なるほど。そういうことか。やっと合点がゆきました。

対馬からの金が献納されたのは、701年。涌谷町の金より48年も早い。明石氏は698年としていますが、その違いはたいした問題ではありません。

つまり、この疑問は、明石氏に軍配が上がりました。

だから困るのです(笑)。明石氏は、定説と異なることをたくさん書いています。定説というか一般に信じられていることとは違う内容が明石氏の本にはたくさん書かれています。その数はあまりにも多すぎて確認できませんが、ここで紹介した内容だけでも、明石氏の書籍に書かれている内容の信憑性が増します。この点、他の人気作家の文章とは全く異なります。

対馬の金って、外国からの金じゃないの? と思ったあなた。資料9) を読んでみてください。その答えが書かれています。

恐るべし! 明石氏の書籍! なんなんだ、明石散人って! これが管理人の感想です。世の中には凄い人がいるものだとつくづく感じます。

以上の分析から分かることは、奥州平泉の金は、砂金だけではなく、金山から採鉱されていたということです。金鉱石を製錬する技術も、それを金箔にする技術も平泉にはあったということです。

***

この記事は書きかけです。なかなか執筆か終わらない。

おわりに

まだ書きかけなのに「おわりに」を書く自分が悲しい(涙)。

管理人は、日本の歴史学をまなぶ人たちの悪癖に嫌気を覚えます。歴史を専門に学んでいる人ほどそれがひどい。その悪癖とは、出典を示さずに議論をするということ。外国の書籍を見れば分かりますが、日本の歴史書は巻末の参考文献を単なるオマケという認識の著者がたくさんいます。引用文献を明示する、という基本的なことを大学で学んでいないのでしょう。そんなことは知っているよ、と反論されそうですが、だから知らないのだと倍返しをしたくなります。出典に引用した書籍の版とページ数はどこに書いてあるの? と。

紙幅の都合などと逃げられても困ります。だからダメだと言っているのですから。

ある説を主張しようとするのなら、他の人がそれを検証できるように論文を書くというのは当たり前のこと。どの学術分野でも当たり前のことです。それなのに、歴史学の分野だけは、出典を明示しないという慣行があるらしい。検証しようとする人の検証作業を困難にしようとする悪癖です。

その結果が、明治以前の歴史の教科書が頻繁に書き換えられるという恥ずかしい結果を生んでいます。そして、その責任は皆、知らんぷり。新史料が見つかったため、教科書が書き換えられることになり、これまで教科書の修正に反対していた人がその責任を取って役職を辞任したという話は聞いたことがありません。

つまり、だれも責任を取らない人たちの議論と言うことです。このことは、「定説」を作ってしまえば、誰も反対できない。「定説」を覆すのは非常に困難、ということです。しかし、見方を変えれば、「定説」とは何か、という議論になります。

この「定説」の議論こそ、歴史研究学者は真剣に取り組むべきことだと思います。その定説の根拠に明治、それ以前の学者の説が使われていないかと言うことです。明治の学者の論文はボロボロの中身です。まさに、感想文レベル。そんなものを引用して定説を構築しているのでは話になりません。

出典:
1) 「(4)重さを量る」、奈良文化財研究所
2) 奈良・東大寺の大仏と金
3) 「緯度・経度の 1度はどれくらいの長さがあるのか」、WINGFIELD since 1981
4) 環境省
5) 『日本の魅力発見プロジェクト ~岩手県平泉・一関地域~』、経済産業省
6)  『奥州平泉中尊寺大長寿院の一考察』、中川成夫
7) 『謎ジパング 誰も知らない日本史』、明石散人、講談社、2012
8) 田中貴金属、「貴金属の知識」
9)  銅ビジネスの歴史、第2章 我が国の銅の需給状況の歴史と変遷、JOGMEC 金属資源情報、2006.8平成17年度情報収集事業報告書第18号